C2 横綱授与の始まり

年代:寛政元年(1789)11月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP02-049

 画像にある寛政元年11月場所の6日目に東西の関脇谷風小野川の二人に横綱が授与され、翌7日目から一人土俵入りが披露された。現在につながる横綱の始まりであった。『武江年表』の寛政元年の項、「〇角力人谷風梶之助、小野川喜三郎横綱免許、又九紋龍といへる角力取行はる。」とある。番付を見ると谷風・小野川ともに関脇である。現在では考えられない横綱昇進であるが、当時の勧進相撲の特質を表している。この場所の大関は東方久留米藩お抱えの九紋龍清吉、西方は九州から来た筑紫潟増右衛門である。九紋龍は天明7年(1787)11月場所に登場した巨人力士で実際に相撲を取り決して弱くは無かったが位置づけは看板大関。九州渡りの筑紫潟は3場所登場して3番しか相撲を取らず(1勝2敗)、こちらは全くの看板大関であった。

 当時の大関は看板大関が多く、相撲の実力とは関係なく身体の大きなものを連れてきては大関に据えた。場所では相撲は取らず全休か千秋楽に看板大関同士が取組むといった形でほとんどがその場所限りか数場所登場して名前が消えた。真の実力者は関脇以下にいたのである。谷風も最初は身体の大きさを見込まれた看板大関からスタートしたが、実力を認められ前頭に一度落ちてそこから実力で三役を保った。身体があまり大きくない小野川は下から相撲修行を始め努力して上位に上がってきた。谷風が圧倒的な強さで土俵を制覇し、連勝記録を伸ばしていた天明2年2月場所で5年ぶりに谷風を破ったのが小野川であった。その後も谷風はもちろん小野川もほとんど負けることなく出場場所は好成績を上げた。此両者の対戦は話題を呼び勧進相撲の人気は絶頂に達した。

 横綱免許とは相撲の司である肥後熊本藩の吉田司家故実門弟に加え横綱を締めて一人土俵入を許されることであるが、それを実際に行ったのは谷風小野川が最初である。腰に綱を巻くという趣向は相撲の興隆期(18世紀中)に登場した力士の絵姿にも見られ、必ずしも第一人者の強さが無くても一種の装飾としてそのようなことが行われていた。もちろんそのような力士は現在の横綱の数には入っていない。また、一般的な相撲史では谷風は第4代の横綱であり、その前に明石、綾川、丸山という横綱がいたことになっている。このヴァーチャルミュージアムのA江戸勧進相撲前史に出てきた明石志賀之助は初代横綱とされているが、横綱免許を得たという事実もない伝説上の力士である。綾川は実在の力士であるがやはり横綱免許の確認は取れない。丸山も元文頃(1736~1741)に活躍した強豪力士で寛延2年(1749)に長崎を巡業した際にそのときだけ横綱を許されたらしい。綾川丸山については谷風小野川に横綱を授与するにあたり相撲会所が寺社奉行に提出した願書に書類にその名が書かれている。ただし「尤も記録等焼失し(中略)古き年寄共申伝ひ来り」とあるので確かな証拠があるわけではない。思うに、何事も前例主義の江戸時代なので、初めてのことであれば何か難しいことを言われて頓挫しかねない、横綱授与は勧進相撲においては前例があることで決して新しいことではない、ということを示すために敢えて何十年も前の綾川丸山を持ち出してきたものと思われる。

 谷風小野川は6日目に土俵上で横綱を授けられ、翌7日目から一人土俵入を行った。

 

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