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年代:享和元年(1801)3月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP02-083画像は享和元年3月場所の番付である。雲州侯お抱えの力士が西方を席巻した。大関雷電、関脇千田川、小結鳴滝、前頭稲妻、桟シ、秀ノ山と幕内9人の内6人が雲州お抱え力士であった。当時の藩主は茶人大名で有名な松平治郷侯、不昧と号した当代一の文化人であった。このころの松江藩は藩政改革が実を結び財政が豊かになった。不昧公はその富を惜しげもなく文化方面に使い茶道では不昧流を興し、名器のコレクションを行い不昧公好みと言われる和菓子、茶器、庭園などが現在に残っている。また無類の好角家でもあり、目利きがよかったのか上位力士がことごとく雲州お抱えとなってしまった。当時の川柳に
雷電と稲妻 雲の抱えなり
とある。雲とは出雲のことであり松江藩のことである。大関雷電為右衛門と前頭稲妻咲右衛門のことを指している。番付を見ると四股名の上に雲州とあるがこれは出身地を表すのではなく抱えている藩の所在地を表している。抱えの無い力士は江戸と書かれることが多い。この享和元年3月場所の番付を見ると、東大関平石は讃岐丸亀藩(京極家)、関脇花頂山・前頭大綱・鴻ヶ峰は出羽庄内藩(酒井家)、小結鬼面山・前頭諭鶴羽は阿波藩(蜂須賀家)、前頭靏翼・鯱は筑後久留米藩(有馬家)のそれぞれ抱え力士であった。前頭田子ノ浦は江戸となっているので未だ抱え主はいなかったようである。西方は上位6人が雲州松江藩の抱え力士、前頭山颪が因州鳥取藩(池田家)、前頭達ヶ関・岩滝は仙台藩(伊達家)の抱え力士であった。力士はおおむね出身地の大名に抱えられることを願ったため出身地と抱え主が一致することも多いが、全く別の出身地であっても藩主の眼鏡にかなって抱えられることもしばしばあった。ちなみに雲州抱えの力士は、雷電は信州、千田川は肥前島原、桟シは上州、秀ノ山は江戸本所の出身で、雲州出身は鳴滝と稲妻の2人だけであった。
このように一つの藩が多くの力士を抱える弊害として、藩主が帰国する際に抱え力士を引き連れて国入りすることがよくあり、そのために力士が足りなくなることがあった。典型的な例として享和元年の11月場所は雲州抱えの力士が藩主お国入りのためほとんど出場せず、色々番付をいじくってとりあえず場所は開けたものの人気が出ず6日目で打ち切りになってしまった。『日本相撲史』上巻によると雷電の付けていた日記に10月に勧進元の代理人である年寄東関が鳥取の米子まで出向き、雲州抱えの力士の出場を懇願したが拒絶されたことが書かれているそうだ。この場所は雲州抱えでありながら江戸本所出身の秀ノ山だけが出場している。同じようなことが寛政4年(1792)3月場所にもあった。この場所は久留米藩お抱え力士と雲州抱えの力士が出場しなかったため前頭が東西それぞれ4枚しかない番付となり少人数興行となってしまった。このように大名抱えの力士は藩主の都合により出場したりしなかったりしたため、興行主は場所ごとに力士を出場させるよう各藩に頼んで回ったようである。
C4 相撲藩松江藩西方を占める