B1-2 谷風梶之助インフルエンザに罹り死去

年号:寛政7年(1795)3月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP02-064

 寛政7年(1795)1月9日、無敵の横綱谷風梶之助は江戸市中に流行したインフルエンザに罹り46歳で現役のまま急逝した。『武江年表』寛政7年の記事を見ると、「正月九日谷風梶之助終わる。四十六歳、仙台に葬す。江戸にて贔屓ありし角力取なり。筠庭云ふ、勝川春英よく谷風、小野川が肖像を書きたり。其の他も多かれども、わきて谷風が肖貌ならでは、角力らしく思われぬ程なりき。珍しい力士なりといふべし」。生前最後の場所となった寛政6年の11月場所でも谷風は4日出場して全勝であった。小島貞二コレクションはこの谷風最後の場所の番付を欠いており、ここでは安永天明寛政の20年余当たり前のようにあった大関谷風の名前が忽然と消えた寛政7年3月場所の番付を掲げる。谷風の跡を襲って大関になったのは内弟子として薫陶を受けた雷電為右衛門である。

 谷風は足掛け26年、44場所出場した。総取組数308、勝258、負14、預15、引分14、無勝負5という戦績であった。同じ相手で3回負けたのは小野川喜三郎だけであった。安永7年から天明元年までの4年間7場所は無敗で、引分・預が一つずつあったが現在で云うところの63連勝を飾った。天明から寛政にかけては円熟期とも言うべき時代で8年間で負けはわずかに4回であった。江戸の市民は谷風を力士の中の力士と感じていたようで、寛政3年(1791)江戸城吹上苑において行われた将軍徳川家斉の上覧相撲の様子を儒者成島峰雄が書いた『すまゐ御覧の記』に谷風について以下のように書かれている「西の大関谷風といへるが、是も横綱をかけ、達ヶ関、秀ノ山といへる大にたくましきものどもを二人したがへ出ておなじことふるさま(東の小野川と同じように一人土俵入を行ったさま)、山もうごき出たらんやうにて、腰のかこみなどは、げに牛をかくしつべき樹がらほどのさましたり、まなじりほそう引きて鬢に入る、おもゝちにこやかにつゝしみいやまひたる、いささか驕慢の気なく、めやすくて入ぬ(後略)」。春章、春好、春英の描いた谷風の面影を彷彿とさせる記述である。

 

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