C1 谷風、小野川に敗れる

年代:天明2年(1782)2月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP02-028

 谷風は安永7年(1778)から8場所負けることが無かった。当時の勧進相撲には成績優秀者を表彰するような制度は無く、現在のように「記録」というものにそれほど価値を置かなった。とはいうものの江戸の相撲好きは谷風が何年も土俵で負けていないことを知っていた。現在では大きな注目を浴びる「連勝記録」も当時の複雑な勝負の決め事のおかげでさほど興味を呼ばなかったようである。出場するかしないかは力士の自由で、相手が休めばこちらも休場となり星取表には「や」の文字が入る。現在では物言いがついて取り直しとなるような相撲は検査役の裁定で「無勝負」「預」となり相撲が長引けば取り疲れて「引分」となる。白星の間に「や」(休場)「ム」(無勝負)「ア」(預)「✖」(引分)がしばしば入るので単純に白星の数だけを数えて連勝記録と考える習慣は無かったのである。

 画像にある天明2年(1782)2月場所7日目、谷風は大坂から東上してきた新進の東二段目3枚目小野川喜三郎と対戦した。小野川は安永8年(1779)10月場所に江戸の番付に初めて名前が出た。谷風とはこの場所が4回目の対戦だったが前3回はいずれも敗れていた。谷風は前述の通り安永6年(1777)10月場所の7日目に苫ヶ島に敗れてから足掛け5年間一度も負けていない。途中に休場や預、引分等を含むが63連勝と勝ち星を伸ばしていた。このとき谷風は33歳、小野川は25歳であった。

 天明2年(1782)2月場所7日目、その相撲は『角觝著聞』という書物によると「七日目、谷風と合せしが、はじめは刎ねて刎ねてはねつけるを谷風、西にてきつとこらへてすつともたるるを(小野川)前へはかせんとす。梶之助心得たりと跡へ少し退く所を付込み、谷風が胸を強く右の手にて押し、左の手にて股をとりあふむけにこかしたり。」とある。今の技で言えば小股すくいで谷風を見事にひっくり返したのであった。この番狂わせは相当話題にのぼったようで、『武江年表』にこそ書かれていないが、当時の狂歌に
 手なれせし手をとうろうの小野川や かつも車のわつといふ声 朱楽菅江
 谷風は負けた負けたと小野川がかつをよりねの高いとり沙汰  太田蜀山人
とあり、その熱狂ぶりが伺われる。谷風と小野川の取組はそれ以降がぜん江戸っ子の注目するところとなり、その対立時代は江戸相撲の最盛期と呼ばれるようになる。7年後の寛政元年(1789)11月場所に於て谷風小野川の両人に横綱が授与され、真の強者である横綱が誕生する(C2横綱授与の始まり参照)。

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