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2006年11月14日

●海士(現代語訳)

ワキ/ワキツレ(従者達)「出ているぞ、すぐにも沈みそうな三日月が。」
名残惜しいが、都を出立して、月の沈む西へと急ごう。」
ワキ(従者)「天地のはじまりから恵み久しい神々、」
天の児屋根の命のご子孫、」
子方(房前)「房前の大臣とはわたくしのことである。」
さてわたくしの母上は、」
讃岐の国志度の浦、」
房前という所で、お亡くなりになったと、」
うかがいましたので、すぐにその地に赴いて、」
追善供養をしたいと思います。」
ワキ/ワキツレ(従者達)「なれない道中となった……。」
奈良坂から振り向くと、せっかくの三笠山を隠す春の霞、うらめしいことだ。」
三笠山、今ぞ栄えん〟と春日の神に祝われたわが藤原北家……。」
繁栄を祝われた北家の当主のわたくしが、」
南海道へと急ぎます。」
道を行けばまもなく摂津の国。」
昆陽を過ぎ、日本の国土のはじめ、淡路島のそばを渡ると、旅も末近い。」
鳴門の沖に響く物音は、泊りを定めぬ海人の漁り舟、あてもなく漂う舟の楫の音。」
従者「早くも、讃岐の国志度の浦にお着きでございます。」
おや、あちらに、男か女かはわかりませんが、ひとりの人がやって来ます。」
あの者をお待ちになって、この地のいわれを詳しくお尋ねなさいませ。」
海士「海士の刈る藻に住む虫〝われから〟ではないけれども、〝我から〟(自分の思いのために)涙で濡れる袂だこと。」
「これは讃岐の国志度の浦の、」
志度寺は近いけれども仏道を願うりっぱな心も、風流心も持ち合わせない、」
わたくしは天野の里の海人でございます。」
まあ風流なことに、あの有名な伊勢の海人は、夕波が打ち寄せるころ、」
内宮・外宮の山から出る月を待ち、」
浜辺の芦を吹く風で秋の訪れを知るという。」
また須磨の海人は、塩を焼く木にも、」
若い桜の枝を折って持ち、」
春のおもむきを思い出す縁があるというのに、」
この志度の浦ではなんの慰みもなく、」
風流と縁のない名ばかりの海人……。天野の原にも、」
花の咲く草はありません。」
何の見所もないので、海松布でも刈ることにしましょう。」
「刈り取らないでも自然と運ばれていく、浜辺の川の芦……。」
刈らないでも浜川が運ぶ芦……。」
海へ流れこむ流れ芦のように自然に身をまかせ、」
この世を過ごすなりわいだから、」
わたくしには風流な心がないとも言えない……さあ天野の里に帰ろう、」
天野の里に帰りましょう。」

従者「やあ、そこの女。そなたはこの海辺の海士か。」
海士「はい、ここに住む海士で水中にもぐる者でございます。」
従者「水にもぐる海士ならば、あの海底の海松布を刈ってさしあげなさい。」
海士「お気の毒に、旅疲れなさって、ひもじくておいでですか。」
ここに住むわたくしが申すことでもありませんが、こんなにみすぼらしい片田舎だというのに、」
ふしぎなこと、高貴なお方を見るとは……。さあ海松布をお召し上がりください。」
刈るまでもありません、ここに採ってある海松布をお召し上がりください。」
従者「いやいや召し上がるためではない。」
あの海底に映る月をごらんになるのに、海松布が茂っていて邪魔なので、」
刈り取るようにとの仰せである。」
海士「それでは月のために刈り取るようにとの仰せですか。」
昔も仰せで水にもぐった海士がいました。」
明珠をこの沖で竜宮に奪い取られたのですが、」
それを海にもぐって取り返してきたのも、この海辺の……」
海士なのです、空には満月の光が満ち、海には潮が満ちてきました。」
さあいそいで海松布を刈ることにしましょう。」
従者「ちょっと待て。明珠を海中から取り返してきたのもこの海辺の海士だと申すのか。」
海士「はい、この海辺の海士でございます。」
またあちらの人里を天野の里と申しまして、」
その海士の方が住んでおられました村里でございます。」
またこちらの島は、」
その珠を海中から取り返してはじめて人々がそれを見ましたので、」
『新しい珠の島』と書きまして、新珠島と申します。」
従者「それではその珠の名は何と申したか。」
海士「珠の中にお釈迦様の像がおいででいらっしゃいまして、」
どの向きから拝み申し上げてもそちらにお顔を向けていらっしゃいますので、」
『面を向かうに背かず』と書きまして、「面向不背の珠」と申します。」
従者「それほどの至宝をなぜ、中国の朝廷から日本へ渡したのか。」
海士「今の大臣、淡海公の御妹は、中国の帝高宗のお后にお立ちになりました。」
すると藤原氏ご出身のお后の御氏寺、興福寺へ三つの宝が渡されました。」
華原磬、泗浜石、面向不背の珠の三つです。」
二つの宝は都に到着し、」
明珠はこの海の沖で竜宮に奪われてしまいましたが、」
大臣は目立たないお姿でこの海辺にお下りになり、」
賤しい海士の娘と契りを結ばれて、」
一人のお子様を儲けられました。」
今の房前の大臣がそのお方です。」
房前「何を申すか、自分こそ房前の大臣であるぞ。」
ああ慕わしい海士のお方であることよ……、話を続けなさい。」
海士「ああどうしましょう。」
今までこの場にはかかわりないことと思っていましたのに、」
それではあなた様のことでございましたか。」
……なんともお気の毒なことでございます。」
房前「自分は大臣の子と生まれ、」
豊かな道が開けた藤原氏一門の身分。」
けれども心がかりなのは、」
自分は生き残ったが亡き母について知らないこと……。」
「ある時側近の者がこう語った……。」
おそれ多いことですがお母上は、讃岐国志度の海辺、房前の海士……、いえあまり詳しく申しては失礼にあたります、と申して言葉を濁す、それを聞いて、」
それではわたしは賤しい海士の子か。」
身分の賤しい女の身に宿ったのか……。」
地「もしそうであっても母は母……、」
そのような母の胎内にしばらく宿ったことも、帚木の露に宿る月の光のようで、」
草木を育てる雨露と同じ母の恩ではないか、」
そう思ったから訪ねてきたのだ。」
ああなんと慕わしい海士のお方かと涙をお流しになったので……、」
海士「ほんとうにわたくしは風流心もない海士、けれど……、」
「ただでさえ潮に濡れたこの袖なのに、」
そのうえ涙で濡れよとのことですか、なんともったいないことでしょう。」
「このような高貴なお方が、賤しい海士の胎内にお宿りになるのも前世からの因縁で、」
言ってみれば日や月の光が水たまりに映って、輝きを増すようなものです。」
そして実はわたくしもその海士の子孫……とお答えするのは、」
口に出すのも失礼なこと、まるであなた様の、縁者のようで……、紫の、」
藤咲くように栄える藤原一門、いえもう口を閉じて、申しません、」
あなた様のお名前をけがしたりはいたしません。」
従者「そこまで言うならいっそのこと、あの珠を海中から取り返したところを、」
主君の御前でちょっとまねてお目にかけなさい。」
海士「それではちょっと再現してお目にかけましょう。」
そのとき海士のお方が申し上げるには、」
もしこの珠を取り返すことができたら、」
このお子様を跡継ぎの位におつけくださいと申したところ、」
かまわないと大臣はお聞き入れになりました。」
それではわが子のために捨てる命なので、」
惜しくもないと思い、長い長い縄を腰に付け、」
『もしこの珠を取り返すことができたら、」
この縄を動かします。」
そのとき皆さんは力を貸して引き上げてください』と取りきめ、」
一つの鋭い剣を抜き手に持って、」
あの深い海底に飛び込むと、」
海も空も一つになるような雲の波……、」
煙る海波をのりこえながら、広い海原をもぐっていって、」
竜宮は真下と思うが底も見えず、」
どこともわからぬ深い海底に、」
霊妙不可思議な力ならいざ知らず、珠を取り返すなどおぼつかない。」
ともかく竜宮にたどり着き、宮殿を見ると、その高さが三十丈もの宝石の塔に、」
例の珠を納め置き、香や花を供え、警固の神には、」
多くの竜が並んで座している。」
そのほか恐ろしい魚や鮫が口を開け、とても助かりそうにないわたくしの命……。」
やはり女の身、夫子供が慕わしく、故郷の海辺が恋しいこと……。」
あの波の向こうに、わが子はいるだろう、その父の大臣もおいでだろう……。」
それにしてもこのままで、会えずに死んでしまう悲しさといったら、と」
涙ぐんで立ったが再び思い切って手を合わせ、」
『ありがたや志度寺の観音菩薩様、わたくしにお力添えをくださいませ』と、」
観音の大慈悲の力がこもった鋭い剣を額に当て、竜宮の中に飛び込むと、」
竜宮の者どもが左右へばっと退くそのすきに、宝の珠を盗み取って、」
逃げようとすると、」
警固の神が追いかけてくる。かねてからの考えがあって、」
手に持つ剣を取り直し、」
乳の下を剣で裂き斬り、そこに球を押し込み」
剣を捨ててうつ伏せに横になったのだ。」
竜宮の慣習で死人を忌み避けるので、あたりに近づく恐ろしい竜もいない。」
取り決めどおり縄を動かすと、」
人々は喜んで引き上げた。珠は見えないが」
海士のお方は海面に浮かび出た。」
海士「こうして浮かび出はしたけれど、」
恐ろしい竜の仕業と見えて、」
身体も切り裂かれ血染めになってしまった。」
珠も取り返せず、もぐった当人も命を落としてしまったよと、」
大臣はお嘆きになった。」
そのとき海士が息絶えだえで申すには、」
わたくしの乳のあたりをご覧くださいませと言う。」
確かに剣が当たった傷跡がある。」
その中から煌々と輝く珠を取り出した。」
……それであなた様も約束どおり跡継ぎの位につき、」
この海辺の名にちなんで、房前の大臣と申し上げるのです。」
今となっては何を隠しましょう。」
わたくしこそあなた様の母、その海士の幽霊ですよ。」
地「この手紙をご覧になって、疑いを抱かずわたくしを弔ってくださいな。」
もう帰ります、はかないわたくしの身は、」
夜の夢では逢えるけれど、」
明ければ別れの悔いが残る、」
われら親子の縁の浅さ……朝の波の底に、」
沈んでしまった。立つ波の下に沈み入った。」
従者「もしもし、あまり不思議な事ですので、」
お手紙を開封してご覧下さいませ。」
房前「それではこれが亡き母上の筆跡かと、」
開けてみれば、『魂が冥途に去って十三年……。」
亡骸が浜の白砂に埋められて長い年月が経った。」
冥途は暗闇……。わたくしを弔う人もいない。」
そなたが孝行ならばわたくしを冥途の闇から救っておくれ。』」
確かにその時から十三年……。」
地「それでは疑う余地もない。ならば弔おうこの志度寺で……。」
弔意を込めた花を供え、妙法蓮華経を読誦して、さまざまの供養をなさるのであった、」
さまざまの追善をなさった。」
地「『寂莫無人声……。』」
竜女「なんとありがたいお弔いだこと……。」
このお経の功徳によって、」
五逆の大罪を犯した達多は、天王如来への成仏を約束され、」
八歳の竜王の娘は南方の浄土に生まれることができた。」
続けて法華経転読をなさいませ。」
地「『深達罪福相、遍照於十方……』」
竜女「『微妙浄発身、具相三十二……』」
地「『以八十種好……』」
竜女「『用荘厳発身……』」
地「『天人所載仰、竜神☆1恭敬』、なんとありがたいお経であろう。」
竜女「現在この法華経の功徳によって、」
地「今法華経の功徳によって、」
『天竜八部、人与非人、皆遥見彼……、」
竜女成仏』の経文どおり、わたくしも成仏し、」
その後ここを讃州の志度寺と名づけ、」
毎年法華八講を催し、朝晩に読経する、」
仏法が栄える霊地になったのも、」
この亡き母への供養に始まるとお聞きしています。

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