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2006年11月14日

●海士(あま)

藤原不比等(ふひと)の子、房前大臣(ふさざきのだいじん)は、讃岐国(さぬきのくに)の志度(しど)の浦で亡くなった母の追善のため、従者を連れて志度の浦へ下る。
そこへ一人の海人が、風流な慰みのない身を歎きつつ現れる。従者が海人に声を掛け、水に映る月を大臣が見るため海藻を刈るよう命じたことをきっかけに、海人は、志度の浦にまつわる以下の出来事を語る。
かつて、不比等の妹が唐の高宗に立后したため、唐から藤原家氏寺の興福寺に三つの宝が送られたが、運ぶ途中、宝のうち「面向不背の珠」と言われる珠が志度の沖で海中の竜宮に奪い取られた。珠を取り返すため藤原不比等が志度の浦へ来て一人の海人と契りを交わし、子を儲けた。今の房前大臣がその人である……。
自身の出生のいきさつを知った大臣が、思わず海人に名のり出ると、海人は、自分は不比等と契りを交わした海人の子孫だと言う。
その後従者のすすめで、海人は、その後の出来事を仕方話で語る。……不比等と契りを交わした海人が、生まれた子を不比等の跡継ぎにしてもらうという条件で、竜宮からの宝珠の奪還を決意する。海人は腰に縄を付け、剣を持って海中の竜宮に飛び入り、宝珠を奪い取る。竜宮での死人を避ける慣習を利用して、海人は竜たちが近寄れないように、乳の下を切り裂きそこに珠を押し入れてうつ伏した。海上で人々が縄を引くと、海人が瀕死の状態で引き上げられ、その乳の下の傷の中に、まさしく宝珠があった。海人は命を捨てて珠を奪い返したのだった……。そこまで語ると、海人は、実は自分こそその海人の幽霊だと明かし、房前大臣の母である証拠だという手紙を渡し、弔いを頼んで海中に消え去る。
その手紙には、自分が命を失ってから十三年経つと書かれており、年数の合致から先ほどの海人が自分の母の幽霊に違いないと確信した房前大臣は、当地の寺で読経の追善を行う。
すると、母は成仏し竜女の姿となって、法華経を手にして現れる。竜女は成仏を喜び、法華経をめでて舞を舞う。
その後、房前大臣の孝行によって追善を行った寺は、志度寺と名づけられ、毎年法華八講を催して朝晩法華経を読誦し、仏法の栄える霊地となった。

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