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東海道五十三對 大磯


翻刻

曽我十郎祐成弟の五郎と共に の仇なる工藤祐経を討んと心を 砕きて附覗ふといへども其便を得ず或時 ふ図大磯の遊君虎御前になれそめ 深き中にぞ成にける虎ハ祐成が本望遠 せし後十九歳にて尼と成諸国を巡り後 紀州熊野に赴く路にて終はる 時に寛元二年正月年七十一歳といふなり

絵師: 国芳

落款印章:朝桜楼国芳(芳桐)

彫師:-

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曽我十郎と虎御前の悲恋をモチーフに、涙雨降る東海道を描いた広重の絵。化粧坂を下った大磯宿の入り口付近。



題材

この絵に名前が描かれているのは、曽我十郎祐成と虎御前であり、彼らは『曽我物語』に出てくる登場人物である。


「物語の舞台を歩く 曽我物語」によると、彼らの出会いは建久二年(1191)、十郎20歳、虎17歳の十一月のことであったことがわかる。しかし【翻刻】にもあるように、十郎が殺され、虎が出家するのはその2年後の19歳のことである。そこからわかるのは、この絵がその二年の間のいつかの、十郎と虎の場面を描いたものであるということである。

出会って以後、十郎は曽我の里(現在の小田原市東部、JR御殿場線下曽我駅付近)から峠を越えて大磯に通い、二人の仲は親密なものとなってゆく。

この絵は大磯の宿の遊女、虎御前と、彼女に会いに来た十郎を描いたものであると考えられる。場所は、大磯。大磯には化粧坂があり、そこで有名なのは松並木である。

そして、二人の他にもう一人描かれている子供がいるが、彼女も虎と同じ遊郭の者である。訪れた十郎に対し「いらっしゃいませ」と言っているかのような格好をとっているこの子どもは、遊女(虎)について身辺の雑用をしながら遊女になるための修行をしている"禿(かぶろ)"であることがわかる。禿とは、七,八歳で遊女屋に奉公してくる。遊女の道中の共をつとめたりもし、遊女などから琴や三味線、茶の湯を習い、一人前の遊女に育てられていく。禿はもともと、髪を剃ってうなじにわずかに髪を残している者を言ったが、絵の少女のようにおかっぱ頭の禿は特に"切り禿"と呼ばれた。江戸、吉原では、太夫・格子は三人禿、二人禿と言って、二,三人を伴って道中をしていた。散茶(太夫、格子の下であり、梅茶の上。)は一人と定められており、他の位の遊女は禿を伴うことを許されていなかったが、あくまでも吉原でのことなので、大磯の虎の位が散茶であったとは言えないであろう。(参考:「遊女の世界」)

また、後ろにある黒い物体は、提燈であろう。


仇討ち

曽我兄弟の仇討ち

参考: 坂井孝一「曽我物語の史実と虚構」吉川弘文館 2000年 


建久4年5月28日(1193年6月28日)源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曾我十郎祐成と曾我五郎時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件。赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちに並ぶ、日本三大仇討ちの一つ。

事件経過

所領争いのことで、工藤祐経は叔父・伊東祐親に恨みを抱いていた。安元2年(1176年)10月、祐経は郎党の大見小藤太と八幡三郎に狩に出た祐親を待ち伏せさせた。2人の刺客が放った矢は一緒にいた祐親の嫡男・河津祐泰に当たり、祐泰は死ぬ。 祐泰の妻の満江御前とその子、一萬丸と箱王丸が残された。満江御前は曾我祐信と再婚。一萬丸と箱王丸は曾我の里で成長した。 その後、治承・寿永の乱で平家方についた伊東氏は没落し、祐親は捕らえられ自害した。一方、祐経は早くに源頼朝に従って御家人となり、頼朝の寵臣となった。 祐親の孫である曾我兄弟は厳しい生活のなかで成長し、兄の一萬丸は、元服して曽我の家督を継ぎ、曾我十郎祐成と名乗った。弟の箱王丸は、父の菩提を弔うべく箱根権現に稚児として預けられた。 文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、箱王丸は随参した敵の工藤祐経を見つけ、復讐しようと付けねらうが、敵を討つどころか逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる(後に五郎時致は、この「赤木柄の短刀」で工藤祐経に止めをさした)。 箱王丸は出家を嫌い箱根を逃げ出し、縁者にあたる北条時政を頼り、烏帽子親となってもらって元服し、曾我五郎時致となった。時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。 建久4年(1193年)5月、源頼朝は、富士の裾野で盛大な巻狩(狩り場を四方から囲み、その中に獣を追い込んで捕らえる狩りの方法。)を開催した。巻狩には工藤祐経も参加していた。最後の夜の5月28日、曾我兄弟は祐経の寝所に押し入った。兄弟は酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちが兄弟を取り囲んだ。兄弟はここで10人斬りの働きをするが、遂に兄十郎が仁田忠常に討たれた。弟の五郎は、頼朝の館に押し入ったところを、女装した五郎丸によって取り押さえられた。 翌5月29日、五郎は頼朝の面前で仇討ちに至った心底を述べる。頼朝は助命を考えたが、祐経の遺児に請われて斬首を申し渡す。五郎は従容と斬られた。

曾我物語

この事件は後に『曽我物語』としてまとめられ、江戸時代になると能・浄瑠璃・歌舞伎・浮世絵などの題材に取り上げられ、民衆の人気を得た。


歌舞伎としての曽我物語

曾我物…芸能史上最も数の多い演目をもつ史実潤色の作品群。

幸若舞・能・古浄瑠璃を始めおびただしい数の演目で、特に江戸の大衆に喜ばれた。歌舞伎では、江戸の荒事が、五郎を典型化したため、代々の市川団十郎がこの役を演じ、半ば信仰の対象にまでなった。元禄ごろの上方では「盆曾我」といって七月に曾我物を上演する慣習があったが、宝永六(1709)年以後江戸では正月に曾我を演ずることが多く、享保ごろからは初春の吉例となって、三座ともに必ず曾我狂言を上演する習慣が生まれた。(参考:歌舞伎事典)


歌舞伎の「曾我物」は、曽我伝説やその飜案的戯曲化を経て歌舞伎に入ったもので、伝来は古い。これは、武勇談として歌舞伎化されてきたものである。元禄期、劇的完備へと運動が為されていた中に、この「曾我物」も巻き込まれた。天和二年、市村座で、十郎は中村七三郎、五郎は野田蔵之丞の配役で演じられた。七三郎は、祐成を今までの荒武者ではなく、甚だ和やかに演じて大当たりを取った。以来、祐成は立役から和事師の領分になった。「曾我物」の一員の主として存在する十郎に、色白の体で優しく女めいた十郎という全く正反対の演出を行ったことは「曾我物」の舞台全体に大きな変化を及ぼした。ただの機械的な筋書風でであった曾我劇が、初めて人間性を帯びた劇として形式が整ったといえる。 (参考:「守隋憲治著作集」)


考察

曽我物語の中で最も大きなテーマであり、物語の進行に欠かせないのは、兄弟による、父の敵である工藤祐経への怨みと、仇討ちへの決意である。その強い決意を持った十郎が何故、遊女である虎と出会ったのか、それは小井土守敏氏の「大磯をめぐる十郎祐成の描かれ方:『曽我物語』諸本間に見られる相違」にもあるように、母の叱責に端を発したものである。十郎と五郎の兄弟は、異父兄弟である小次郎に仇討ちの助力を願い出たが断られた。小次郎からそれを聞いた母に諌められた十郎は、母に仇討ちは諦めたと思わせるために、女性のもとに通うようになるのである。相手が遊女という立場であったのは、夫の罪が及ばない存在であるから。彼らの出会いは偶然ではなく、計算されたものであったことがわかる。 しかし、曽我物語諸本(妙本寺本・大石寺本・太山寺本・十行古活字本など)によって異なりはあるも、虎との仲が非常に睦まじいものであったことは、各諸本間共通である。『曽我物語』で二人の仲が睦まじいと伺えるエピソードの一つは、仮名本系諸本にある、和田義盛との場面であろう。大磯宿で酒宴を催していた義盛が、その美貌で有名な遊女、虎を席に招くが、十郎と共にいた虎は義盛の席に出ようとしなかった。再三の催促の後、虎はやっと席に出たが、義盛は機嫌が悪い。そして、虎に自分と十郎のいずれかに「思ひ差し(この人と思う人に杯を差すこと。相手を指定して酒をつぐこと)」をすることを強要した。虎は十郎より年輩である義盛を差し置いて、十郎に「思ひ差し」し、その席が一時緊張する。ここから分かるのは、虎がいかに十郎を深く思っていたかである。

一方十郎はどうか。その場面の記述に、

十郎もとよりさハがぬおのこにて、なにほどの事かあるべき、事いできなハ、なん十人もあれ、

よしもりとひつくんで、せうぶをせんずるまでとおもひきり、あざわらひてぞゐたりける。

(流布本 巻第六)小井土守敏「曽我十郎五郎の分担-「さわがぬ男」と「たまらぬ男」-」

という部分がある。ここからわかるのは、十郎は"さわがぬ男"であり、思い差しの件でも動揺することなく一歩線を引いた傍観者のような気持ちで"あざ笑いつつ"状態の成り行きを見ていたことが分かる。そうなると、こんな場面でも冷静に物事を判断している十郎の虎への想いは、虎ほど深くないようにも思える。

しかし、仇討ちの決行日が決まり、虎との別れをしに来た十郎を描いた以下のような場面がある。

是時移悲、佐可有不事、不及カ別耶、引分彼方此方。互後返見、倶溺涙、山隔中幽影面彰、可然乍知、常被見其方山 足短山咹方戀、何同心

十郎は、何度も後ろを振り返り、涙に濡れ、虎の姿が見えなくなってからも、山の彼方を振り返り、虎のことを恋しく思っている。

その後宿に帰ってからの記述にも、「不被忘虎後躰」という部分があり、虎への想いを断ち切れていない様子が描かれている。

"さわがぬ男"である十郎だが、虎への想いは非常に深いものであった。彼の頭に占める一番は、やはり"仇討ち"であるが、それでも虎はそんな十郎にとっても大切な存在であったのである。

そこでこの絵を見たときに、人物の表情に注目してみると、虎と子供は微笑んでいるが、十郎はいたって無表情に見える。十郎は"さわがぬ男"で、冷静な人物ではあったが、虎に対しては"さわがぬ男"ではなかったように思う。そこで私が考えたのは、ここに描かれた場面は、二人が出会って間もないころ、もしくは出会ったその日の場面ではないかということである。そうすればこの冷たいようにも見える十郎の表情にも納得がいく。二人が出会ったのは建久二年の十一月のことであるから、着物を見ても、合致しないこともないと考えた。



参考文献

「歌舞伎事典」1983年 平凡社

坂井孝一「曽我物語の史実と虚構」2000年 吉川弘文館 

坂井孝一「物語の舞台を歩く 曽我物語」2005年 山川出版社

小井土守敏「大磯をめぐる十郎祐成の描かれ方:『曽我物語』諸本間に見られる相違」

小井土守敏「曽我十郎五郎の分担-「さわがぬ男」と「たまらぬ男」-」

「日本説話伝説大事典」 平成十二年 勉誠出版

「東海道名所図会」昭和四二年 人物往来社

今戸榮一「目で見る日本風俗誌(7) 遊女の世界」 昭和六〇年 理想社

守隋憲治「守隋憲治著作集」 昭和五二年 笠間書院


【参考HP】

知識探索サイト ジャパンナレッジ http://na.jkn21.com/index.html 閲覧日2008年11月27日

デジタル大辞泉

日本人名大辞典

日本大百科全書

大磯町観光 http://www.town.oiso.kanagawa.jp/kankou/kankou.html 閲覧日2008年12月2日