曽我物語

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出典:日本大百科全書

軍記物語。作者不明。真名本(擬漢文体)10巻、大石寺本(たいせきじぼん)10巻、仮名第一次本10巻、同第二次本12巻。原型は1285年(弘安8)11月以前に成立していたかと推測され、『吾妻鏡』にこれに近い記事が載る。真名本・仮名第一次本は14世紀後半(南北朝期)にそれぞれ原型を改訂増補して成立したものであろう。大石寺本は16世紀後半に真名本を延べ書きで抄出したもの。  伊豆国久須美庄(くすみのしょう)(静岡県伊東市の一帯)の相続をめぐり工藤祐経と伊東祐親(すけちか)とが争い、祐経に暗殺された河津祐通(かわづすけみち)(伊東祐親の子)の遺児曽我十郎祐成とその弟五郎時致の兄弟が辛苦のすえ、1193年(建久4)5月28日に源頼朝の寵臣としてその富士野遊猟に付き従った祐経を井出(富士宮市)の宿営地で討ち、十郎は斬り死にをし、五郎は捕らえられて処刑された事件を筋の中心とする。物語は、兄弟の忍苦の生涯に、その母や十郎の愛人大磯(おおいそ)宿の遊女虎(とら)の愛情物語を配したものであるが、背景として頼朝が鎌倉幕府体制を樹立する過程で、伊東祐親が頼朝と自分の娘との仲を裂き、頼朝の子を川へ沈めるなど、その怨恨の対象となるいきさつを述べて、曽我兄弟の仇討が私闘の域にとどまらず、将軍の仇敵(きゅうてき)の孫が寵臣を暗殺するという体制反逆の事件としての意味づけをしている。そのためこの事件は、仇討には成功しても兄弟は謀反人として生命を奪われざるをえないという悲劇的性格を有することとなり、それが逆に兄弟の復讐心の純粋さを保証することとなって、事件後出家した虎の純情さとあわせて、後世に人気を博する原因となった。  もともとこの物語の原型は、忍苦の生涯を送った兄弟の怨霊を鎮魂するために在地で発想されたと考えられており、その性格は真名本に直接受け継がれている。真名本は関東地方の本地説話を集めた『神道集』と共通する特殊な当て字や文章が多量に含まれ、箱根権現を軸とする宗教色と地方的性格が強くみられる。これに対し仮名本は、いわゆる「切兼(きりがね)曽我」や「和田酒盛」の場面など劇的な場面構成には富むが、歴史性と在地的なリアリティーは消去され、京都での改作と考えられる。一般に流布したのは仮名本で、演劇の曽我物の淵源(えんげん)となり、また近世には『絵本曽我物語』『曽我勲功記』『陰顕曽我物語』などの実録小説を生んだ。

出典:デジタル大辞泉

そがものがたり【曾我物語】

軍記物語。12巻または10巻。作者未詳。鎌倉末期あるいは室町前期の成立か。曾我兄弟の生い立ちから、富士の狩り場で父のかたきの工藤祐経(くどうすけつね)を討つまでを描いたもの。後世の曾我物などの題材となった。


出典: 坂井孝一「曽我物語の史実と虚構」吉川弘文館 2000年

史実と虚構

建久4年(1193年)5月28日に富士の巻狩りの際に起きたこの事件について公式に書かれた文書は「吾妻鏡」以外にない、また「吾妻鏡」に記載されたのも事件後100年近く経ってからといわれているのでリアルタイムな記録ではなく、真名本曽我物語の記述に似通った所があるとされている。しかし「吾妻鏡」に記載されていることから、全くの作り話でもない。この項の趣旨とは方向が違うが、鎌倉幕府は将軍の膝元で起きた衝撃的なこの事件を意図的に隠そうとした痕跡のあることが分かり、現在様々な憶測を呼んでいる。

曽我物語の成立

史実として隠された物語を世に広めたのは、物語にも登場する虎御前(とらごぜん、とらごぜ)こと虎女(とらじょ)だとされる。物語は彼女の口から口伝として徐々に広まり語り継がれ確立していき、南北朝時代から室町・戦国時代を通して語り継がれてきた。現在、北は福島から南は鹿児島まで広い範囲に曽我兄弟や虎女に関する史跡が残っているのも語り継いだ人達がそこにいた為と思われる。語り継ぎは主に巫女や瞽女(ごぜ)など女性の口(女語り)から行われたといわれている。やがて能や浄瑠璃として上演されるようになり、江戸時代には曽我物として歌舞伎でも出し物として取り上げられ、市川団十郎が演ずる曽我五郎が大当たりして以後正月興行には欠かせない出し物となり、広く人びとの間に定着した物語となった。