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2008年02月17日

●シンポジウム発表内容②

許先生の発表概要です。

三島由紀夫の文学におけるナショナリズムの再評価
水原大学  許 昊(Huh,Ho)
 三島が本格的に政治問題や思想に関心を見せるようになったのは「林房雄論」(昭38.2「新潮」)を書いてからである。三島はこの評論の中で、不安と動揺の時代を生きた一人の知識人の思想と心情に密着しつつ、自分の右翼的な立場を明らかにした。
 林房雄(1903-75)は大正十四年、共産党の理論機関誌「マルクス主義」の編集員となり、左翼評論を発表するかたわら、新進作家として活躍し、プロレタリア運動とその分裂の中心人物の一人となった。昭和五年四月に共産党シンパ事件で検挙され、出獄後は、日本主義へと転向して、幕末の長州藩を舞台に攘夷と開国をめぐる日本の動乱期を進取的に生きる青年像(井上馨と伊藤博文がモデル)を描いた『青年』(昭9)を執筆、小林秀雄らの「文学界」にも参加した作家である。さらに、文学の政治からの独立を主張したことで小林多喜二から「右翼的偏向」を批判されたこともある。
 『沈める滝』(昭30)では主人公・城所昇を「思想とは縁のない人間」として設定しているごとく、当時の若手作家としては珍しくも非政治的だった三島が、「林房雄論」をきっかけに自分の右翼的な立場を公にする一方、幾度も自衛隊に体験入隊し、「楯の会」を結成するなど、派手な言動で世間の耳目を集めることになる。
 昭和四十年十一月二十五日、三島が「楯の会」会員四名とともに東京都市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部を訪れ、益田総監を人質にした後、バルコニーの前に自衛隊員約一千人を集合させ、檄文を撒く一方、憲法を改正して自衛隊を国軍とするためのクーデターを呼びかけた。そして昼十二時十五分ごろ、「楯の会」森田必勝とともに総監室内で割腹自殺した事件は、あまりにも衝撃的であった。
 その後、三十七年余の歳月が流れ、時代は大きく変化している。「世界が確実に没落し破滅するという」(『金閣寺』)緊迫感も無くなり、軍国主義復活や天皇制論争も今や現実感を喪失しつつある。
 かつての天皇制や軍国主義、侵略戦争のような忌々しい言葉が今は一般大衆にさほど威圧感を与えない、その被害をもろに受けた韓国ですらも。インターネットや自由貿易の拡大、海外旅行自由化の拡散、などによって繋がっている世界。その中で三島が唱えた右翼的な心情は古いナショナリズムとして色褪せてしまうのか。
 三島は『鏡子の家』、『豊饒の海』などで、到来しつつある新しい時代を予感しつつ、国外を作品舞台として設定したのではないだろうか。その一方、その時代の到来を恐れ、劇的な行動を選んだのである。
 三島の文学を再検討し、その中に潜んでいる未来への予言や、新しい可能性を探ってみたい。

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