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年代:嘉永6年(1853)11月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-082ペリー提督の黒船来航から幕末までの出来事と江戸勧進角力との関係を見ていく。画像は嘉永6年11月場所の番付である。この年の6月にペリー艦隊が浦賀へ来航した。『武江年表』嘉永6年の項に「〇六月三日、北亜墨利加華盛頓(ワシントン)使節(正使マツテウ〇セロペルリ)の船大小四艘、相州浦賀の要津に舶し貿易を乞ふ。これに依りて諸家警固厳整にして、数艘の番船海上に充満し、旌旗を翻へして昼夜に懈らず。(中略)江府の貴賤、始めには仔細を弁ぜずして恐怖して寝食を安んぜず、老人婦幼をして郊外遠陬に退かしめしもありしが、平穏にして不為に属し、諸人安堵の思ひをなせり。(中略)其の顛末を記せるものは牛に汗し棟に充つべし、依りてここには委しくせず。(後略)」安政元年の項に「正月十三日、亜墨利加の舶渡来して豆州下田へ着き、三月二十一日退帆す。此の間官吏応接の事件は我が輩の委曲に弁知すべき所にあらず。其の大略は世人粗伝聞せる事故ここに記さず。」とある。
最初に艦隊が来た時も江戸の力士たちは指をくわえて見ていたわけではない。一同浦賀の守りに参加するべく年寄雷権太夫、待乳山楯之丞、玉垣額之助を総代にして番所に願い出た。しかしその時は艦隊が帰ったためお役に立てなかった。翌年嘉永7年(1854)1月に再び来航したときにも願書を出し「(前略)御用に相立候義にも候はば身命投捨相勤申度段挙つて申上候なれども、力業已にて外心得候義無之御道具持運人足にても被仰付被下置候はば難有仕合に奉存候(後略)」という忠勇を発揮した。その願いが容れられて力士たちは年寄幕内力士その他一団となって横浜へ向かった。
力士たちの最初の仕事は幕府からの贈り物米200俵(5斗俵)を船に積み込む作業であった。1俵は約80㎏であるが力士たちはそれを2俵3俵と担いで運んだ。幕内の巨人力士白真弓は一度に8俵を運んでアメリカ人の度肝を抜いたと伝わる。
それが終わると仮御殿の幕内で土俵入と稽古相撲を見せた。これらのことは日本の記録にもアメリカ側の記録にも出ている。国会図書館デジタルコレクションに『ペルリ提督日本遠征記』(大同館 1912年)があるが、その中にもアメリカ人が見た力士について詳しく書かれている。ペリー一行が見た力士たちはまぎれもなく画像の嘉永6年11月場所に出場した力士たちである。特に東大関小柳常吉はペリー提督にその身体を触らせた。ペリー提督は「奇怪な動物的に発達した肉体に驚き呆れた」と書かれている。概してアメリカ人の目には相撲という競技は恐ろしく野蛮な出し物に映ったようであった。しかし、これまでアメリカ人が見てきた東洋各地の人々と日本人はどこか決定的に違うとも感じたようである。
そして開国以降さまざまな外国人の力自慢喧嘩自慢がやってきて相撲取と試合をしたという話題が絵になって売り出された。
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