B2-05 名人大関剣山谷右衛門

年代:嘉永5年(1852)2月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-077

 大関剣山谷右衛門がこの場所を最後に引退する。画像は幕内にある事19年名人と言われた剣山の名前が載った最後の番付である。『武江年表』の嘉永5年の項には「角力取剣山谷右衛門五十三歳、十六年続きて東の大関を勤む」とある。この記事は間違いで剣山が大関に上がったのは天保13年(1842)2月場所で大関としては足掛け10年である。

 剣山谷右衛門は享和3年(1803)越中国富山で生まれる。天保5年(1834)1月場所に鰐石文蔵の名前で新入幕した。時に32歳であった。新入幕の時から抜群の強みを見せてすぐに小結に上がったが、その後好成績を続けながらも平石・手柄山といった先輩力士が上位にいて関脇・大関と上ることができなかった。天保12年1月場所にようやく関脇に上がり強みを発揮して天保13年(1842)2月場所に大関に昇進した。新入幕からすでに8年経っていた。天保14年1月場所に鰐石から剣山谷右衛門と改名した。阿波藩のお抱え力士であった。幕内生活19年、長く務めた力士らしく三人の横綱と対戦している。稲妻とは1勝3分、不知火には3敗1預1無勝負、秀ノ山には3勝3敗5分であった。通算成績は総取組数207、勝143、負31、預6、引分22、無勝負5と横綱となってもそん色ない成績であった。人気があったため多くの浮世絵が描かれている。

 現在では40歳近くなっても幕内に留まり活躍する力士は皆無だが、江戸時代には相当な年齢になっても地位を保ちつつ現役を務めた力士はそれほど珍しくなかった。谷風は46歳、雷電は45歳までほぼ強さを保ち余力を残して土俵を去った(谷風は現役中死去)。阿武松稲妻は共に46歳まで相撲を取った。それでも50歳過ぎまで現役大関を保った大関は剣山ただ一人である。