D04五代目市川団十郎

「うら白はま平実ハ源八兵衛広保」
絵師:春英 判型:細判/錦絵
上演:寛政2年(1790)11月12日江戸・河原崎座
外題:「大だん観進帳」 一番目四立目「濡寄時雨桜」
資料番号:arcUP1077 所蔵:立命館ARC.

【解説】
 寛保元年(1741)~文化3年(1806)10月29日没(享年65歳)。四代目団十郎の子として江戸に生まれる。宝暦4年(1754)11月、二代目松本幸四郎であった父の四代目団十郎襲名にあたり、三代目幸四郎を継ぐ。明和7年(1770)11月、29歳で五代目団十郎を襲名。
 父である四代目団十郎は、江戸中期の歌舞伎界のまさに中核を担う存在。その実子である五代目団十郎は、恵まれた血筋にあぐらをかかず、父譲りの勉強熱心さでその地位を高めていく。宝暦4(1754)年11月、三代目松本幸四郎を襲名、和田義季役で外郎売の台詞が大好評となる。明和7年(1770)11月に五代目市川団十郎を襲名する。この時代、舞台で早変わりによる一人七役などの新演出が流行り、五代目も実践する。また、実事の分野である「忠臣蔵」の由良之助を演じたのは、市川宗家において五代目団十郎がはじめであるなど、革新的な面を持つ。寛政3年(1791)、長男に団十郎を譲り、自分は「海老」でなく「蝦(じゃこえび)」だと謙遜し、市川蝦蔵と改名した。寛政8年11月、一世一代として「暫」を勤め、後、向山の反故庵に隠居した。芸風は元来のお家芸を本領とし立役・女方など兼ねたが、実悪を最も得意とした。団十郎はまた、「花道のつらね」という狂歌名をもって、狂歌連と交わった。
本図は、団十郎を名乗った最後の「暫」を演じた顔見世狂言で演じた次の場の常磐津の所作事で、奴のはま平を演じた時の役者絵である。(黒.)

【用語解説】実事忠臣蔵立役実悪