D05七代目市川団十郎

「助六 市川団十郎」
絵師:豊国〈1〉版型:大判/錦絵2枚続
出版:文化6年(1809)3月江戸(見立)
資料番号:arcUY0255 所蔵:立命館ARC.

【解説】
 寛政3年(1791)~安政6年(1859)没(69歳)。初名〈1〉市川新之助。前名市川ゑび蔵。寛政12年(1800)〈7〉市川団十郎襲名、天保3年(1832)3月〈5〉市川海老蔵となり、息子に8代目団十郎を襲名させる。5代目団十郎の孫にあたる。
小柄で眼が大きく、口跡にすぐれており、荒事・実事・実悪・和事・色悪など実に広い役柄を演じわけた。色悪は、「四谷怪談」の民谷伊右衛門のような役柄であり、七代目団十郎が確立したと言われる。
 本図は、まだ若い市川団十郎に市川の家の演目である「助六」を演じさせようという期待から売り出された見立絵による作品。その後、文化8年(1811)3月には実際に助六を演じた。ほぼ同世代の3代目尾上菊五郎とはライバルであり、この助六を団十郎に断わりもなく、文政2年(1819)に菊五郎が出したときに、七代目団十郎も助六を演じ、対抗した。左図は、その時の助六に扮するために化粧中の楽屋の団十郎である。
 天保3年(1832)3月海老蔵と名を改めたときに、後に歌舞伎十八番となる摺物「歌舞妓狂言組十八番」を配付。そこには、初代、二代、四代目らが演じた家の狂言が並んでいた。そして、この演目を次々と上演し、文政11年(1828)には、能の「安宅」を歌舞伎に取り入れ舞台も松羽目を使う、まったく新しい演出の「勧進帳」を作り上げた。歌舞伎十八番は、座元に代々伝わる寿狂言、つまり脇狂言であり、勧進帳は三番叟に位置づけられる。「歌舞伎十八番」は明らかに座元の権威を役者が超えようとする運動だった。
 天保13年(1842)6月、天保改革による奢侈の禁令に触れ、江戸十里四方追放の刑を蒙ったが、歌舞伎役者の代表と見なされてのことであった。嘉永2年(1849)12月には、特赦によって翌年の3月に江戸に帰ったが、嘉永5年(1852)年の一世一代の公演の後は、上方や地方での出演が多くなり、生涯で、京、大坂・堺・甲府・伊勢・名古屋・下関・博多・長崎などに至る全国を旅して各地の芝居に出演した。その在坂中の安政2年(1855)8月には、江戸から呼び寄せた八代目の自殺にあっている。
 なお、文筆に長じており、『遠く見ます』『遊行やまざる』などの著述や、多くの書画や書簡を残した。七代目は二人の妻と三人の妾を持ち、七男五女という大変な子福者だったので、みずから「寿海老人子福長者」と号した。
【用語解説】
色悪 歌舞伎十八番