中国の仏塔:雲岡石窟第2窟の仏塔浮彫

雲岡石窟 第2窟東壁仏塔浮彫
山西省大同市、中国
5世紀後半

 山西省の大同市郊外にある雲岡石窟は、北魏時代(5世紀後半)に皇帝権力の積極的関与をうけつつ、大規模な造営が行われました。南側を出入り口とする石窟内部には巨大な仏像をはじめ、様々な彫刻が施されたのですが、上にお示ししたのは、そのうち第2窟の東壁を南の出入り口側から見た様子です。壁面には四体の仏像が彫り出されていますが、それら仏像の間に、それぞれ、五重の屋根を重ねた仏塔が彫り出されています。各階には仏像らしき姿も見えますね。こうした屋根を重ねる仏塔は、中国のみならず、日本でもなじみのある形ですが、その先端部分をよく見ると、インドの仏塔で確認した半球状の覆鉢が確認できますね(さらに、その上方に相輪と呼ばれる輪を上下方向に重ねたものが取り付けられています)。つまり、東アジアの仏塔とインドの仏塔は、全く無関係ではなく、その先端部分にインド仏塔の名残を留めているわけです。
 中国に仏教が伝来したのは、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけての漢代のこととされています。この時期、中国では、すでに木造で三階建てや五階建ての高層建築を築く技術がありました。また、それら木造の高層建築を模したミニチュアをつくり、神仙世界の神々の住まいとしてお墓に埋葬し、墓主(被葬者)の魂が、無事、天へと昇ることを願ったりしていました。伝来初期の仏教は、このような神仙世界への信仰と融合(習合)して、中国に受け入れられていったと考えられています。
 つまり、仏教およびその信仰対象である釈迦が、中国において神仙世界やそこに住まう神々と同列に扱われたことを受けて、釈迦の仏舎利を祀る半球形の仏塔が、神々の住まう高層建築と融合し、三重塔や五重塔のような屋根を重ねる高層建築の仏塔が登場することになったわけです。インドで見られた仏塔に基壇が重ねられてゆくという上昇志向にうまくよりそうように、中国の高層建築が組み込まれてゆく点が面白いところです。

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