仏塔の源流:サーンチー第1塔その2

サーンチー第1塔 東門正面第二横梁
マディヤ・プラデーシュ州、インド
1世紀

 サーンチー第1塔の四つの塔門には、植物など文様浮彫のほか、釈迦の伝記(仏伝。ぶつでん)のうち、代表的な場面も浮彫であらわされています。ここにお示ししたのは、東門正面(外側)の上から二段目に配置された「出家踰城(しゅっけゆじょう)」の場面です。

 ヒマラヤ山脈の南側の麓、現在のインドとネパールの国境地帯あたりにカピラバストゥという都がありました。その地をおさめるシャカ族の王子として生まれ育った釈迦は、様々な出来事に遭遇する中で思い悩み、やがて、これまでの生活を捨て、城を出て修行する決意をします。とはいえ、王子という立場のため、白昼堂々と家出することなど出来ません。そこで、夜、皆が寝静まったのを見計らって、こっそりと城を抜け出します。その際、天の神々たちが手助けをしたと、仏伝を語る経典には記されています。
 この浮彫は、まさにその場面を表したものです。向かって左端に城があり、そこから抜け出した馬(釈迦の愛馬で名前はカンタカと言います)が右方向に進むようにあらわされています。その馬の足元を支える人物たちが、手助けをした天の神々たちです。こうして足を支えて、馬の足音が夜の城内に響かないようにしているわけですね。ただ、肝心の釈迦が馬上にあらわされていません。身分の高い人物専用の傘蓋(さんがい)がさしかけられるなど、馬上に人物が存在するかのように、周囲の人々は振る舞っているのに、とても不思議ですよね。実は、インド最初期の仏教美術では、釈迦の姿そのものを敢えて表さず、この図のような傘蓋や台座、菩提樹(ぼだいじゅ)、仏足(ぶっそく。釈迦の足跡)など、なんらかの象徴物を用いて、釈迦の存在をあらわしていたのです。現在の私たちから見れば、仏教あるいは仏教美術とは、仏像(釈迦の姿)があってこそと考えてしまいますが、初期の仏教美術が仏像(釈迦の姿)ありきではなかったことを示す、とても重要な表現の一つです。

▶次のページ

◀前のページ

◀◀このジーナーのトップページへ戻る

arrow_upward