Z0677-001

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小倉擬百人一首 第1番 天智天皇[1]※5

【翻刻】秋の田のかりほの庵の苫をあらミわが衣手ハ露にぬれつゝ


歌意:秋の田にしつらえた仮小屋の屋根にふいた草の編み目があらいので、私の袖はしきりに夜露に濡れることだ。


牛若丸一年奥羽へ下り玉ふ頃 三河矢矧の長が家に止宿し 娘浄瑠璃姫と糸竹を合曲深く契りをかハせしことハ 世の人能く知る所なり  

                                                                           柳下亭種員筆記

絵師:国芳

彫師:彫工房次郎

版元文字:伊場仙板

版元名:伊場屋仙三郎

落款印章:一勇斎国芳


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<原拠>

原拠はお伽草子『浄瑠璃姫物語』または『十二段草子』とも。※2描かれている牛若丸と、彼が思いを寄せている浄瑠璃姫の話は室町時代、琵琶の伴奏で英雄の話として座頭によって朗読された。※3

<あらすじ>

三河の国、矢矧の宿に国司の伏見の源中納言兼高が峰の薬師に祈願して、海道一の遊君と名の高い宿の長との間に儲けた、浄瑠璃御前という才色兼備の姫君がいた。時に、金売吉次の下人となって奥州へ下る御曹司義経は、その豪華な邸宅の前を通りかかり、内の様子を窺う所に、折から管弦の音が聞こえてくる。御曹司が外で笛を合わせると、その音色に感じた浄瑠璃御前は御曹司を内へ入れ管弦や酒宴に時を過ごす。いったん宿へ帰った御曹司は、姫の面影が忘れ難く、再び、姫の子所へ忍び入る。言葉を尽くして言い寄る御曹司の求愛をついに姫も受け入れ、二人は一夜の契りを結んだ。その後、御曹司は吉次とともに奥州に旅立つが、駿河の吹上の浦で重病に倒れ、一人浜辺にとり残される。八幡大菩薩のお告げでそれを知った浄瑠璃御前が侍女とともに吹上にたどり着いたとき御曹司はすでに空しくなっていたが、神々に祈る姫の誠が通じて蘇生する。御曹司は姫に素性を明かし、名残を惜しむ姫に再会を約して、奥州平泉へと下っていった。※1


<絵解き>

牛若丸が金売吉事次に従って奥羽へ帰る途中、三河の国の矢矧の長者の所に泊まる物語の第二段[花揃]牛若は琴の音がするので、尋ね入ってみると、長者の庭に美しい花が咲き乱れている景を描く。ついで第四段[外の管弦の事]姫が女房と管弦を始めるのを牛若は聞いて、笛が欠けていることに気づき、自ら笛を出して、「想夫恋」の曲を吹き、合奏するのが縁となって、弟九段で契りを交わし、弟十段[御座移りの事]で、翌朝二人は別れを惜しみ、吉次と共ににげていくこととなる。国芳画は矢矧の宿を背景とした牛若丸の立姿。吉田幸一氏によれば、本歌の御製の下句「わが衣手は露にぬれつゝ」から連想しての見立画。『浄瑠璃十二段草子』の本文中にも「御曹司名残の袖をしぼりつつ」という部分があり、涙で袖を濡らしている場面がある。

<考察>

他の浮世絵との比較

鈴木健一氏によれば、「義経と浄瑠璃姫の出会いの重要なアイテムと言えば、笛と琴である。都の貴公子の恋にふさわしく、とても優美である優美で印象的な場面である。そのため、義経と浄瑠璃姫を扱った浮世絵でも、屋内で琴を弾く姫に対し、屋外で笛を奏でる義経の姿が描かれている」ということである。

豊春「浮絵十二段管絃の図」 ※6
国芳「源牛若丸矢矧長者が許へ立寄絵図」※7

右の上の絵は、その出会いの場面であり、下の絵は浄瑠璃姫が牛若丸の横笛の妙音に魅せられ、恋の虜となって契りを結ぶという場面である。 それに対して、小倉擬百人一首の絵では、浄瑠璃姫の姿はなく、牛若丸がただ立っているのみである。これはなぜだろうか。二つの観点から推測する。


1歌の解釈

"The Hundred Poets Compared"によれば、天智天皇の歌は一般的には彼が農民の立場になり、辛苦を思いやって詠んだとされている。しかし、この『浄瑠璃十二段草子』の場面で袖が濡れたのは「涙」のためであるのに対し、天智天皇の歌で袖を濡らす原因となったのは、「露」である。これは、吉海直人氏によると、「歌に詠まれた「露」にしても『後撰集』秋部においては、景物としての露であるが、百人一首においては、涙の喩としても解釈しうる」とのことである。また、「衣・露・ぬれ」という用語から、百人一首の主題の一つたる恋歌としての解釈さえも可能となる」のである。※4つまり、本来の労働歌の枠を越え恋歌としての解釈もすることができるのである。それらのことから、二人の姿ではなく、一人佇む牛若丸を描いたのは、別れの場面を描くことにより、「涙」で袖を濡らしたことを強調したかったのではないかと私は思った。


2理想的貴人としての天智天皇と源義経

一勇斎国芳は堂々とした義経の姿を描いている。彼の衣服の詳細は『浄瑠璃十二段草子』の第五段において、驚くほど細かに記述されている。下人に身をやつしているはずの、御曹司がこのような美々しい姿をやつしているのは、いかにも不自然に感じられるが、源氏の御曹司としての義経を中世の理想的貴人に仕立て上げる方向へ進んでいった室町期文芸の到達した極点を示したものである。 また、秋の田のかりほの庵の苫をあらミわが衣手ハ露にぬれつゝの歌は天智天皇の作とされているが、作者の真偽ははっきりしていない。。※1吉海直人氏によれば、「『後撰集』では、秋の部に天智天皇御製として、配列することにより、必然的に農民になり代わって農作業の辛苦を思いやった慈悲深い帝の歌として再生してくるわけである。百人一首をそれを受けて「理性体撫民体」の歌と考え、天智天皇の中に理想的為政者像を幻視しているのであろう」ということである。※3つまり、どちらも、作者の理想的な貴人像を表していると考えられる。 このことから、源義経の神々しい姿を描くことにより、庶民に対して室町時代の貴族趣味の趣向、風俗を伝える役割をしていたのだと思う。






<参考文献・サイト>


※1 『御伽草子集』株式会社新潮社 松本隆信 昭和五十五年一月 

※2 『〔古典聚英9〕浮世絵擬百人一首 豊国・国芳・広重画』笠間書院 吉田幸一 平成14年

※3The hundred poets compared : a print series by Kuniyoshi, Hiroshige, and Kunisada Henk J. Herwig, Joshua S. Mostow  Hotei Pub2007

※4『百人一首の新研究―定家の再解釈論―』和泉書院 吉海直人 二〇〇一年三月

※5http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87

※6 『図説|浮世絵 義経物語』 河出書房新社 藤原千恵子 二〇〇四年十一月

※7 『錦絵日本の歴史一 神々と義経の時代』 日本放送出版協会 尾崎秀樹・加太こうじ・時野谷勝 昭和56年7月