矢矧

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やはぎ(矢作とも)


●現在の愛知県岡崎市・安城市付近。矢作川右岸に位置する。地名の由来は、日本武尊が当地に駐留し、対岸の賊を平定するに際し、矢作部が川辺に自生する竹で多数の矢作を作り、献上して大勝したことによる。

〔古代〕矢矧。平安期に見える地名。三河国碧海郡・額田郡のうち。東海道と矢作川が交差する交通の要所には市が立っていた。矢作川は碧海・額田の郡界をなしており、渡河は浅瀬を歩いて渡るか渡船を利用した。この渡し場に宿泊施設ができ、市も立つようになって平安後期には宿場が形成された。宿駅は当然矢作川の両岸にあったと見られ、碧海・額田両軍にまたがっていたと思われる。


〔中世〕矢作。鎌倉期から見える地名。碧海・額田郡のうち。矢作川西岸は碧海荘に属した。治承5年(1181)3月に源行家軍と平家軍が矢作川を挟んで対陣した(平家物語・源平盛衰記)。 また、矢作宿は足利氏の三河支配の拠点となっており、政治的に重要な場所となり都市化も進んで東西交通・周辺経済の中継地として大いに繁栄した。室町期には既にあった源義経と宿の長者兼高の娘浄瑠璃御前の悲恋物語は、矢作宿の繁栄を背景に生まれたのであろう。建武2年(1335)11月25日新政に反旗を掲げた足利氏の大軍が新田義貞らの軍を矢作川で待ちうけて激戦を展開した。この合戦を描写した「太平記」に東宿・西宿が初めて見えるが、前代にそういう区分は既にできていたのだろう。単に矢作(宿) とあるのは、両者の総称であった。矢作川の洪水や支流の乙川の流路変化もあって東宿は衰微し、その中心地は乙川のややさかのぼった地点の南岸に移り、室町木には東矢作と呼ばれることもあったが、次第に西宿側に専ら矢作の名称が定着するようになる。しかし、矢作川西岸だけを矢作と呼ぶようになるのは江戸期になってからである。


〔近世〕矢作村。江戸期の村名。三河国碧海郡のうち。岡崎藩領。矢作橋は、慶長5(1600)~6年頃対岸の八町村との間にかけられ、土橋であったが、寛永11年(1634)徳川家光の上洛の際、総けやき造り208間の板橋となった。矢作橋の付近には慶長年間大友鍛治と称される鍛冶職人が居住し、製造された甲は矢作鉢と称した。自社は、時宗の光明寺・誓願寺、真宗大谷派勝蓮字、矢作神社など。宝暦年間(1751~1763)に東矢作村と西矢作村に分かれたという。


●矢を作ることを職業としている人。矢師。



参考文献)「角川日本地名大辞典」編纂委員会、『角川日本地名大辞典23 愛知県』、角川書店、1989