005-0364

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東海道五十三対 小田原の駅


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絵師: 一勇斎国芳

彫師:

版元:

翻刻 小田原の駅

前右兵衛佐源頼朝は  永暦元年より伊豆の国に配  流と也十四年の春秋を送り給ひ  たるうち伊東入道の娘に馴れそめ人しれ  ずふかき中とそなりけるこのこと入道の耳に  いりうしないたてまつるべきを祐清が忠義によって  北条か館にいりおたのみありて終に時政か婦女と  密にあい馴れたまひけるなん後に御台所と 仰がれ給ひ頼朝没後、尼将軍と  仰がれしはこの姫宮のことなりける


翻刻に書かれている通り、源頼朝は伊豆に配流されている間、二人の女性と関係している。その記述は『吾妻鏡』『曽我物語』『源平盛衰記』にも載っている。

《源平盛衰記から》

前の右兵衛佐頼朝は、去る永暦元年(1160)、義朝の謀反の罪の縁坐によって、伊豆国へ流罪にさせられたが、武蔵、相模、伊豆、駿河の武士達は、その多くが先祖代々源氏の格別の恩顧を受けていた者達である。その好みをすぐ忘れられるものではないので、当時平家に恩顧を受けている者以外は、皆頼朝に心を通わせて、戦が起こったならば頼朝のために命を捨てるつもりだという旨、表明する者が多くいた。頼朝もまた、そのことについては心中深く思いはじめていることであったので、世の中の様子をうかがって年月を送っていた。

伊豆国の住人、伊東入道祐親法師は源氏累代の家人であったが、平家からも格別の恩を受けていて、伊豆国におけるその権勢は他に見ない。娘が四人おり、三番目の娘はまだ結婚していなかった。頼朝は祐親が大番役で上洛している時、その娘のところに密に通い、男の子が一人生まれた。頼朝は殊の外喜んで寵愛し、千鶴と名づけた。

千鶴が三歳になったとき、帰国してきた祐親がその子を見て「この幼い者は誰だ」と問うと、頼朝と娘の間に生まれた子だという。怒った祐親は家来をよんで子供をまつかわ(地名か)の奥の白滝の底に簀巻きにして沈めよ、と命じる。家来たちは内心困惑したものの言うとおりにする。その後すぐに祐親は娘を江間小次郎のところへ嫁がせる。ある日、祐親の息子である伊東九郎祐兼(清)がひそかに頼朝に父が彼を暗殺すようとしている旨を伝え、頼朝は家来に助けられながら逃げる。

その後、頼朝は北条四郎時政を頼りにして過ごされていたところ、また彼の娘にひそかに通ったのであった。時政は、京より戻る道中でこの事を聞き及んで、大いに驚き、同道していた前検非違使兼隆を婿にとる旨を約束し、頼朝と娘を引き離した。兼隆のところにやった娘はよほど思いが強かったのか、兼隆の家からちょっと出掛けてくる、というようにして脱走してしまったのだった。しばらく経っても一向に姿が見えないので、おかしいと思ってあちこち尋ね回ったけれども、行方も知れなくなってしまった。実は彼女は終夜伊豆山をたどり求めて、頼朝のもとに籠もっていたのだった。時政、兼隆はこの事を聞いて憤ったけれども、その山は大衆(寺院にいる宗徒のこと)が多く、武力も恐れないところであるので、押し入って奪い返すこともできない。 家来たちはこの事を聞いて、頼朝のもとに馳せ参じ、身の回りのお世話をした。頼朝が以仁王の宣旨を受ける(この話の中では文覚に説得される)までのその間、頼朝と時政は表向き恨みあっていたが、実はお互いの力量を見込んで、背く心は持っていなかった、と書かれている。

《八重姫と政子》

上記の話で、伊東入道祐親の娘とされている女性は八重姫という名前である。そして時政の娘というのは北条政子のことである。 頼朝の配流時代読経三昧の蟄居生活を送ったと吾妻鏡にも伝えられるが、20代後半に入るぐらいには、もう平家の監視もゆるみ、配所を出た彼は、比較的親しい伊東祐清のいる伊東館を訪れた。そこで美女の聞こえ高い伊東祐親の三女八重姫と恋に落ちる。やがて千鶴御前という男の子が生まれた。頼朝は大いに喜び、「かの小さき者十三にだにもならば元服させて、十五にだにもならば先に立てつつ、伊東・北条を相具して、盛長・盛綱を使として、東八カ国を打ち回りつつ、秩父・足利・三浦・鎌倉・新田・大胡・千葉・河越・江戸・笠井・小山・宇都宮・相馬・佐貫の人共に歎き合わせむに、叶わずは奥州平泉の館の権太郎秀衝を憑みて、頼朝が果報の程をも為さばや」と言ったと曽我物語に記述されている。しかし八重姫の父祐親が二人の仲を裂き、子供を殺し、八重姫を江間小四郎の許に嫁がせる。この後八重姫は心労のあまり、病死、もしくは自殺をする。 かわって北条政子といえば、八重姫と同様に父に引き裂かれ、伊豆の目代山木兼隆に密に嫁がせるのだが、政子はどうしてもいやだと思い、『吾妻鏡』の政子の回想に「暗夜に迷い、深夜を凌いで、君の所に至る」とあるように頼朝のところへ戻る。(『源頼朝のすべて』参照) その後、時政・兼隆の怒りを買い、しばらく表向き認めてはもらえなかったが、結局頼朝と結婚し、長女大姫を産むこととなる。八重姫と政子は正反対の存在であり、さしずめ八重姫は「待つ女」政子は「行く女」である。

《祐親と祐清》

伊東祐親の息子である祐清がなぜ頼朝の窮地を救ったのかというと、それには彼の親戚関係が理由している。彼の妻は、頼朝の乳母である比企尼の娘なのである。比企尼は、頼朝の乳母のうちの一人であり、頼朝の20年にわたる伊豆での配流生活を支えていた女性であり、当時、乳母と養い子との関係は、非常に密接であり、親子同然の関係にあった。つまり頼朝が伊東祐親に暗殺されるという話を聞いた比企尼は義理の息子である祐清に頼朝を助けるよう頼んだのだ。 その後、祐親は頼朝を石橋山の戦で殺そうとするも、果たせず、むしろ頼朝勢はどんどん勢力を強めていき、祐親は駿河に逃れようとしたが捕われ、自身の義理の息子である三浦義澄に預けられた。祐親はこれを潔しとせずに治承六年自殺する。 頼朝は祐清に対しては恩があったので、祐親の死後、祐清に恩賞を与えようとしたが、彼は、父が敵方として囚人となったのにどうしてその息子が恩賞をうけとれようか、今すぐ暇をだしてくれ、平氏方につく、と言い、結局源義仲と篠原で戦い戦死する。美談として語り継がれる。(『吾妻鏡』参照)

《歌舞伎版八重姫》

天明四年(1786)に江戸で成田屋が演じた『大商蛭子島(おほあきないひるがこじま)』 舞台は正月の雪ふる伊豆。頼朝が伊東祐親の館を逃げ出したエピソードとその後文覚上人が頼朝を挙兵へと促すところまでを描いた話と曽我物語がごっちゃになったような話であり、『吾妻鏡』と異なるところは、頼朝が逃亡する際、辰姫(八重姫がモデル)を連れ出して駆け落ちしたことである。その後二人は下田に隠れ住み身分を偽って手習いで生計を立てて暮らす。この話に出てくる頼朝は女たらしで寺小屋に来ている娘たちにセクハラをしまくる。また辰姫(八重姫)は非常に嫉妬深く、神経質で、二人は常に夫婦喧嘩をし、去り状(離婚届け)を出す出さないの騒ぎを毎回続けている。逃亡に身をやつし、貧しくなった二人の気持ちはすれちがいばかりで、夫は神経質な妻をうとましく感じ、妻は妻で夫の浮気な気持ちを、去り状を使って試したりするなど、今までの話の二人とは正反対の人物として描かれている。


《考察》   


この絵の一番左側にいる若者は翻刻の中の頼朝である。当時20代後半の彼は一般的な浮世絵に描かれるような髭もなく、正装もしていない無地の着物で、元服もまだしていないかのような若衆風情である。これが配流されていた頼朝の姿なのだ。 そして右手前にいる女性、私ははじめ政子の姿かと考えたが、これは八重姫の姿である。その理由は四つある。

一つ目は、頼朝が入ってきた場所である。正面の門からでなく裏口のような庭からこっそりと入ってきており、この来訪は忍びのものだということが読みとれる。当時彼は配所に住んでおり、八重姫に会うために伊東館に出向いていた記述もある。

二つ目は、その頼朝を出迎え親しげに話しているような女性の存在である。彼女は腰の曲がった年配の女性に見え、国芳は頼朝の乳母である比企尼を表現しているのではないか。

三つ目は、それを隠れるようにみつめている若い女性である。まず、彼女の着物の柄に注目してほしい。赤地の着物に白菊が描かれているのだが、よく見てみるとまるで鶴が飛んでいるような柄に見えてくる。これは彼女と頼朝の間にできた亡き千鶴の「鶴」にかけたものではないだろうか。また、菊も鶴も長寿のシンボルとされており、はかない命であった八重姫の存在との対称をねらっている。そして、帯に描かれている牡丹は成田屋の文様も牡丹であることが関係しているよう見える。帯の下部に描かれている謎のものは、「大商蛭子島」で、あとから来た政子に頼朝を譲る際に政子から交換条件としてもらった北条家の重宝、三つ鱗ではないかと考える。

四つ目は彼と彼女の間に立っている松の存在である。松は、千鶴が殺された場所の「まつかわ」に掛けてあり、また八重姫が頼朝を「待つ」にもかかっている。

松の木、女性の着物の柄、年配の女性の存在、庭のような裏口からはいってきている頼朝と、それをかくれるようにみつめている女性、これらの点からいって、この女性は八重姫である。


しかし、この浮世絵にはまだ疑問点が残っている。 なぜ小田原の話なのに伊東、蛭ヶ島の話をしているのか?小田原には、源頼朝と関連した話が載っていない。にも関わらず、頼朝の、しかも若い時が彼が描かれるのはなぜなのか。 それは、二枚続きの大磯の浮世絵との類似と関係しているように見える。東海道五十三対・大磯の絵は曽我十郎祐成と虎御前が会っているところが描かれている。ここでの類似点は男性の若衆のような姿、女性の着物の色、男女の他に描かれている人物という点である。 この曽我十郎祐成と虎御前の最後は悲恋に終わる。悲恋にかけて頼朝と八重姫の結ばれない姿を隣に描いたのかもしれない。しかし、頼朝と曽我兄弟にはまだつながりがある。 実は伊東祐親は曽我兄弟の祖父なのである。所領争いが発端とされる曽我兄弟の仇討と頼朝・祐親の事件はまた別件なのだが、祖父の自殺=一族の衰退の一番のきっかけは頼朝と八重姫の密通なのである。また五郎時致は富士の裾野狩で仇である工藤祐経を討ったあと、頼朝の部屋に向かい、頼朝を殺そうとする。 小田原は曽我兄弟が育った場所である。小田原、大磯時代の曽我兄弟と伊東、蛭ヶ島時代の頼朝はどちらも父の仇討をするための時期を虎視眈々と狙っていたという類似点がある。この時の彼らは非常に似ている。しかし、曽我兄弟をこのような境地に追いやった張本人が他でもない頼朝だという皮肉がこの浮世絵には隠されているように見える。


伊東氏の家紋 
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庵に木瓜/十曜




参考文献

・東海道名所図会 秋里籬島 人物往来社1967年

・国史大辞典 国史大辞典編集委員会編 吉川弘文間 昭和59年 

・増補日本架空伝承人名事典 大隈和雄・西郷信綱・阪下圭八・服部幸雄・広末保・山本吉左右/編 平凡社 1986年 

・現代語で読む歴史文学 完訳源平盛衰記4 田中幸江・緑川新/訳 勉誠出版株式会社 2005年 

・全譯 吾妻鏡 第一巻 貴志正造/訳注 昭和51年

・源頼朝のすべて 奥富敬之編 新人物往来社 1995年

・日本戯曲全集 第十巻 初世櫻田治助編 渥美清太郎/編纂 春陽堂 昭和5年

・日本・中国の文様事典 視覚デザイン研究所・編集室 デザイン研究所 平成12年