北条四郎時政

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東国で威を振るった源義朝が平治の乱で敗死したのち、14歳の嫡男・頼朝が伊豆国へ配流された事によりその監視役となる。娘の政子が頼朝の妻となった縁から、治承4年(1180年)の頼朝の挙兵に一族を率いて同陣し、鎌倉入りに尽力した。頼朝が鎌倉殿として東国の主となる一方、時政は頼朝の岳父として一定の敬意は払われたものの、遥かに規模の大きい有力御家人に囲まれ、また頼朝が彼らのバランスを取りながら独裁権をふるっていたため、政権の中枢を担うとは言えない立場であった。寿永2年(1182年)11月、頼朝の愛妾亀の前をめぐる政子の報復行動に時政の舅の牧宗親が関わっており、怒った頼朝が宗親に恥辱を与えた。時政は頼朝への抗議として一族と共に伊豆国へ引き上げる騒ぎになっている。焦った頼朝は時政に従わず鎌倉へ残った義時に賞を与えている。

文治元年(1185年)の平氏滅亡、義経失脚後、頼朝の命を受けて上洛し、守護と地頭の設置を認めさせるべく、朝廷との交渉に当たった(文治の勅許)。同年旧暦11月25日、京都守護となる。建久4年(1193年)5月2日、富士の巻狩りで時政が烏帽子親を務めた曾我兄弟による曾我兄弟の仇討ちが起こっている。

正治元(1199年)、頼朝が死ぬと北条氏の権力強化を図って、有力御家人であった梶原景時や2代将軍頼家の外戚に当たる比企能員を大江広元・仁田忠常らとともに殺害した(梶原景時の変・比企能員の変)。正治2年(1200年)旧暦1月、執権就任。さらに、北条の家格を上げんとして将軍の外祖父である立場を利用し娘・政子を経由して、鎌倉幕府草創当時源家一門にしか許されなかった国司への叙任を願う。これによって時政は旧暦4月1日に従五位下遠江守に叙任。源家一門以外で、御家人として初の国司となった。また、頼家を将軍から廃したうえで元久元年(1204年)に伊豆国修善寺で殺害するなどして政敵を排除した。そして頼家の後継者にその弟に当たる12歳の外孫実朝を自邸に迎え、66歳の時政は幼い実朝に代わって自分一人が署名する「下知状」という新形式の文書によって、御家人たちの所領安堵以下の政務を行った。

元久2年(1205年)には有力御家人の畠山重忠父子を謀反の罪で滅ぼし、さらに同年旧暦7月には後妻の牧の方と共謀して娘婿にあたる平賀朝雅を新将軍として擁立しようとしたが、子の義時と政子の反対にあって失敗し、旧暦閏7月20日、強制的に出家させられたうえで伊豆国へ追放され、隠居の身分となった(畠山重忠の乱・牧氏事件)。以後、政治の表舞台に立つことなく、建保3年(1215年)正月、腫れ物のため北条の地で78歳で死去した。

時政が流人だった頼朝に賭けて京都に反旗を翻したことは、時勢を察知しうる優れた先見性があったからである。名もない東国の一豪族に過ぎなかった北条氏を一代で鎌倉幕府の権力者に押し上げた時政だが、頼家暗殺や牧の方事件などもあって晩節を汚したためか、あまり評判は良くない人物である。