北条政子

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1157~1225 鎌倉幕府初代将軍源頼朝の正妻。父は北条時政。頼朝との出会いの機縁は父時政が平治の乱後伊豆配流に処せられた頼朝の監視役であったこと、また二人が通じ合うようになったのは長女大姫の年齢から推して治承元年(1177)ころであったと考えられる。この時、政子が、平氏の威を恐れる父の反対を押し切って深夜豪雨の中を伊豆山権現で待つ頼朝のもとへ走ったという『源平盛衰記』の話は、史実か否かは別として、政子の人間性と素朴な鎌倉地方武士の家に育った女性の一典型を知らせる逸話として有名である。治承二年大姫誕生。ところで当時は全盛を極めた平氏政権が鹿ケ谷の策謀を直接の契機として衰退への道を歩み始め、全国的規模の反平氏運動の機運が高まりつつあった時代にあたり、頼朝と政子の置かれた環境も急速に変化していった。『吾妻鏡』などの記事によれば源家旧臣たちが頼朝の周囲に集まるのみならず、時政が頼朝を婿として認知、また反平氏・源家再興の後援者となっていったとされる。。治承四年八月頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵、石橋山での敗戦はあったものの十月には全関東に居を定めると正式に御台所としてむかえられた。寿永元年調子頼家、文治元年ころ次女三幡、建久三年次子実朝を相次いで出産。鎌倉政権も安定期に入った建久六年、頼朝に随って上洛、東大寺再建法要に列席したほか京都諸寺巡拝、また当時女流宮廷政治家として朝廷内に大きな影響力を有していた後白河院寵姫丹後局と会見、大姫入内問題について意見を交換している。建久八年大姫死去、正治元年正月には頼朝が急死、間もなく出家して尼となる。その後、二代将軍に長子頼家が就任するとこれを後見、最高権力者頼朝亡き後幕府内部が動揺し、また若年の頼家による専恣政治が行われることを防ぐ目的から、将軍の訴訟親裁権を停止、宿老御家人13名による合議制を成立させる一方、父時政・弟義時と結んで幕府内における北条家の地位向上と実権掌握に努める。このため政子・時政の処置に不満の頼家との関係が次第に悪化、建仁三年頼家が重病に陥ると頼家の帯する日本国総守護および総地頭職を頼家の長子一幡と弟実朝に分割譲与。さらにこの処置に不満の頼家の舅比企能員を滅ぼすとともに一幡を殺害。頼家を伊豆修善寺へ幽閉した。三代将軍に次子実朝が任じられると再び後見役として幕政に参画。元久二年畠山氏討伐事件を発端として時政と義時の間に確執が生じると弟義時と結び時政と対立。同年七月、時政の後室牧の方による陰謀事件が発覚すると、当時、時政邸に居た実朝を自分のもとに引き取り、父と牧の方を伊豆北条に幽閉した。またこのころ後鳥羽院を中心として倒幕の機運が活発になってきた京都政界との和解工作のため建保六年にはみずから上洛、子に恵まれない実朝の後続将軍として後鳥羽院の皇子を鎌倉へ迎えられるよう画策、当時朝廷内に隠然たる勢力を築きつつあった藤原兼子と会談してその内諾を得ることに成功した。しかしながら翌承久元年正月右大臣拝賀のため鶴ヶ丘八幡宮に参詣した実朝が頼家の遺児公暁によって暗殺されると、京都側は前の密約を破棄して親王将軍の鎌倉下向を拒否、やむをえず鎌倉では頼朝の遠縁にあたる左大臣九条道家の四男で二歳の三寅を後継者として迎えた。政子はこの幼将軍に代わって簾中で政務を後見、世に「尼将軍」と称されることとなった。承久三年後鳥羽院は北条義時追討宣旨を諸国に下し討幕宣旨を諸国にくだし討幕運動を開始。いわゆる承久の乱は結果的には鎌倉方の圧倒的勝利のもとに終結したものの幕府創設以来最大の危機であり、この時政子は頼朝の正妻として諸御家人を前にして頼朝の恩義を説き幕府の結束を促したのである。乱後は仏事供養や一家内の仕事を中心としながらも義時を全面的に支援して乱の終戦処理にあたった。その後元仁元年義時が没すると義時の後室伊賀氏とその実家の陰謀を抑え、執権職を義時の長子の泰時の補佐役とするなど執権政治体制の確立に尽力した。同時に義時の弟時房を連署として泰時の補佐役とするなど執権政治体制の確立に尽力した。嘉禄元年没。六十九歳。ほうじょう まさこ


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解説

前賢故実

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(『前賢故実』)