船弁慶

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ふなべんけい


歌舞伎

長唄舞踊劇河竹黙阿弥作。明治十九年(1886)、九世市川団十郎(静・知盛)初世市川左団次(弁慶)らにより初演された。能の「船弁慶」をほとんどそのまま舞踊化したもので、松羽目を使い演出もすべて能をかたどっている。  平家が滅び、兄の源頼朝と仲たがいした源義経は、嫌疑を晴らすべく西国落ちを決意。摂津国尼崎大物浦まで一行が到着したとき、弁慶の薦めを容れて静御前を都へ帰すことになる。  弁慶は静の宿を訪ねてこの由を伝えるが、静は弁慶の一存から来たものと誤解し、義経に直訴する。しかし、義経からも重ねて都へ帰る由を伝えられ、静は沈む心を引き立たせ、やむなく別離の[中之舞]を舞う。最後には、烏帽子を脱ぎ捨てて静は帰っていく。  義経一行が船出すると俄かに風が荒れ始め、平知盛を始めとする平家の怨霊たちが波間に現れ、義経一行を海に沈めようと[舞働]を舞って襲い掛かってくるが、弁慶が五大明王に祈ると遠ざかり、波間に消えて失せていく。 九代目(九世市川団十郎)は一度しか上演しなかったが、のち六世尾上菊五郎がこれを復活して非常な傑作に仕上げたので、今は大きな存在になってしまった。


画題

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解説

画題辞典

船弁慶は謡曲の一なり、源義経平家追討の功を挙げて後、會々兄頼朝に悪まれ、身の置き所もなく、一と先づ西国に遯れんと大物の浦より舟を議することを以て前段とし、愛妾静との別離を叙す、次に大物の浦出航後、新中納言平知盛の亡霊に悩まされ、船の将に覆されんとせるも、弁慶が懸命の法力を以て祈り伏することを以て後段とす、知盛亡霊は能画として、又歴史書の一種として屢々描かるゝ所なり。 (『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

謡曲の番名、源義経、兄頼朝と不和となり身の置きどころなくして一先づ西国に赴かうと大物の浦より舟に乗る条を前段とし、の離別を主とし、出船の後、平知盛の幽霊に逢つて祈り伏するを後段とした、前シテ静、後シテ知盛、子方判官義経、ワキ弁慶、ツレ義経従者、狂言船頭、処は摂津、作は信光である、一節を引く。 「抑是は桓武天皇九代の後胤、平知盛幽霊なり「あら珍らしやいかに義経、思ひもよらぬ浦浪の「声をしるべの出舟の「知盛が沈みしそのあり様に「又義経をも海にしづめんと、夕浪に浮べる長刀執り直し、巴波の紋あたりを払ひ、潮を蹴立て悪風を吹きかけ、眼もくらみ心もみだれて、前後を忘ずるばかりなり、「その時義経少しもさわがず「その時義経少しもさわがず、打物抜き持ちうつゝの人に向ふが如く、言葉をかはし戦ひ給へば、弁慶おしへだて、打物わざにてかなふまじと、数珠さらさらと押しもんで、東方降三世、南方軍荼利夜叉、西方大威徳、北方金剛夜叉明王、中央大聖不動明王の索にかけて、祈りいのられ悪霊次第に遠ざかれば、弁慶舟子に力を合せ、御船を漕ぎのけ汀によすれば、猶怨霊は慕ひ来るを、追つはらひ祈りのけ、又引く汐にゆられ流れ、また引く汐にゆられながれて、跡白浪とぞなりにける。 能画として画かれてゐる。 (『東洋画題綜覧』金井紫雲)