平知盛

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たいらのとももり


画題

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解説

(分類:武者)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

平家の武将、清盛の子、平治元年従五位下に叙し左兵衛督、院厩別当に歴任して従三位に至る、以仁王兵を挙ぐるや重衡と共に之を宇治に敗り近江源氏の兵を起すや、姪資盛と共に之を討ち、養和二年には源行家を美濃の板倉に襲ひ走らせ、寿永元年には権中納言となつた、三年源義経一ノ谷を攻むるや、知盛東門を守り敗れて走る、重衡の虜となるや、後白河法皇は重衡をして書を宗盛に遣し三種神器を上らんことを諭せしめ給ふ、其書到る、二位尼泣いて宗盛に請ひ、三種神器を以て重衡を死を贖うとしたが、知盛はたとへ神器を上るとも重衡は決して還ることは無いと云ひ、その不可を説いた、衆これに従つたので遂に此事は止んだ、後、知盛は長門の引島に塁を造り門司関を塞ぐ、四年二月屋島陥り、平家の一族皆海に漂ひ壇ノ浦に漂泊す、知盛勇戦義経を追ひ、一人船首に立つて射士を激励した、此時知盛田口成良の挙動を怪しみ之を斬らうとしたが宗盛に拒まれて果さず成良果して反し源氏の攻むること益々急である、知盛悠々建礼門院及二位尼の船に往きこれを掃除し、安徳天皇海に崩じ宗盛虜となるや知盛切歯して之を恥ぢ、遂に叔父教盛と自刃して死す、年実に三十四。

知盛船掃除のこと、『平家物語』によく伝へてゐる。曰く

源氏の兵共平家の船に乗移りければ、水主梶取共、射殺され、被切殺船を直すに及ばず、船底に倒伏しにける、新中納言知盛卿、小船に乗て御所の御船に参り『世の中はいまは角と見えて候、見苦しからん物共皆海へ入させ給へ』とて艫舳に走廻り掃いたり塵拾ひ、手づから掃除せられけり、女房達『中納言殿、軍は如何に』と口々に問給へば『珍敷東男をこそ御覧ぜられ候はんずらめ』とて、から/\と笑給へば『何ん条只今の戯れぞや』とて声々にをめき叫給ひける。

小堀鞆音、曽て之を画かんとし、既に下絵が出来たのに果さずして他界した。

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)