B2-04 不知火諾右衛門 横綱免許

年代:天保13年(1842)10月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-047
 

 『武江年表』の天保13年の項の終わりの方に「角觝人不知火諾右衛門横綱免許」とある。画像は不知火が横綱免許を得て江戸で初登場した時の番付である。不知火諾右衛門は稲妻の次の横綱である。肥後国(熊本県)宇土郡轟村の生まれで生家はその地方の名家で農業の傍ら郡の役人も務めていた。父の跡を継ぎ平凡に暮らしていたが22歳の時に殺人事件に巻き込まれて役を捨て郷里を去ることになった。そこで文政6年(1823)大坂に出て持って生まれた体躯を活かして湊良右衛門の弟子となり相撲修行を始めた。大坂では黒雲と名のり大関まで出世したが、小成で満足せず、師匠に許しを得て江戸に下り雷の門に入ったのが文政13年(1830)であった。幕下尻に付け出され順調に勝ち星を挙げたがなかなか番付が上がらず入幕したのが天保8年(1837)正月場所で37歳のとき、黒雲改め濃錦里(のぎのさと)となった。雲州松江藩のお抱え力士である。

 濃錦里は入幕ときに既に37歳で、実力はあり番付運もよかったのか入幕後5場所で天保10年(1839)3月大関に昇進した。翌場所名前を不知火諾右衛門と改めた。その後如何なる理由か休場を続け天保13年(1842)2月に関脇から再出発、好成績を挙げ同年横綱免許を得た。しかしすでに40歳を超えての横綱免許だったので多くは望めず、横綱としての登場は3場所、内1場所は全休ということで成績は今一つだった。江戸相撲の幕内にいること8年間、出場は11場所であった。引退後は大坂に帰り湊の名跡を継いで頭取となり大坂相撲の興隆に貢献した。

 文政・天保の江戸町人文化の爛熟期に当たるためか、相撲人気もあり不知火諾右衛門の浮世絵が数多く作られた。目の大きな特徴ある顔立ちの為か登場した場所は少なかったが人気があったことが伺われる。後の不知火型土俵入(土俵中央でのせり上がりのときに両手を伸ばす)の創始者とも擬されているが、浮世絵からはその姿は窺えず確証は無い。