F03下座の位置

「新富座」「見物穴さがし」
絵師:周重 判型:大判/錦絵3枚続
出版:明治16年(1883)東京
資料番号:arcUP3688,3689,3690 所蔵:立命館ARC.

【解説】
 下座は「外座」とも表記されたもので、その由来は、江戸時代には演奏家の中には武家の次男などが混ざっており、それらと他の劇場の従業員とを区別するために「外座」と言うようになったという説や、舞台の陰にあったことから、舞台の外側にあるということで「外座」と呼ばれるようになった説など諸説ある。それが、下手に移動してからは、「下座」と表記されるようになった。下座が上手から移ったのは比較的新しく、江戸では、寛政期以降、文化頃までに移動するが、京阪では明治中期まで上手に存在した。
 初期の歌舞伎では、舞踊音楽とせりふ劇部分(狂言)とのBGMとの区別はなく、全て舞台上で演奏されていた。初期の歌舞伎では、踊りと踊りの間をつなぐのが狂言であり、さらに音楽は、役者の登退場時に囃される程度だったからである。その後、劇の内容が複雑化し、雰囲気作りのためにもBGMが必要になった。当時全ての音楽を担当していた長唄がそれらを演奏することとなったため、現在も下座音楽は長唄が担当している。その後、舞踊音楽は舞台に残り、せりふ劇部分のBGM伴奏など担当する下座は舞台の隅へと演奏する場所を変えたのである。
 本図の新富座とは江戸三座の森田(守田)座の後身として、東京市京橋区新富町9番に建てられた劇場である。座主守田勘弥の進取の気性により、新富座は、演劇界にさまざまな改革を打って出る。劇場にも様々な工夫が施されたが、本図では、舞台下手に黒い囲みが見えており、これが下座(黒御簾)である。なお、本図には、見物の言葉が加えられており、当時の観客の実態を観察する上で、貴重な資料である。(A)

【用語解説】
 守田勘弥

【関連項目】
 劇場図ツケ打