『秋海棠』をめぐる旅にでかけよう

本展示コーナーは、太平洋戦争勃発を挟む時期に上海の新聞『申報』に連載された長編小説『秋海棠』のアダプテーション(ジャンルを越えた移植、改編)の旅をたどるものです。

●『秋海棠』とは

『秋海棠』は、鴛鴦胡蝶派に数えられる通俗小説作家、翻訳家としても知られる秦痩鷗(1908-1993)の小説作品です。『申報』紙上に1941年1月から1942年2月まで全332回の長きに亙って連載され、連載当時から大きな話題となっていました。「秋海棠」は、植物の名前ですが、小説の中では主人公の京劇役者、女形の芸名です。清朝が終焉し中華民国期に入ってもまだ軍閥が跋扈する不安定な時期を起点に、女形である秋海棠の人生の浮き沈みを描いたダイナミックなドラマが展開します。

女形として舞台で美しい姿を魅せる秋海棠は、横暴な軍閥に気に入られるようになります。ある日、その屋敷で出会ったのは、軍閥の妾、羅湘綺でした。羅湘綺はかつては女学生で、志も高い前途ある青年でしたが、軍閥の横暴で妾にされてしまいました。二人は、やがて軍閥の目を盗んで互いを愛するようになります。そして羅湘綺は秋海棠の子を授かり、ひっそりと出産しました。しかし、秘密が暴露されると、秋海棠は軍閥に顔を傷つけられ、舞台に立てなくなるばかりか、羅湘綺と生き別れを余儀なくされます。秋海棠は愛娘・梅宝といっしょに都会を離れ、戦乱を避けて各地を流浪するようになります・・・。

このように、物語の前半は、大きな権力に虐げられる二人の青年の愛、後半は、困窮のなかで生きる父娘と、生き別れた妻との再会をめぐるドラマとなっています。これだけでも、非常に読み応えのある作品となっていますが、当時の読者にとっては、この作品の背後にもうひとつのテーマを見出していました。植物としての「秋海棠」の葉は、中国の国土の形のメタファーとしてよく取り上げられますが、軍閥に辱めを受ける女形の「秋海棠」という構図は、まさに、当時の大きな敵である日本によって侵略される中国のメタファーとして受け止められたのです。恋愛、そして家族の別れと再会といったいったわかりやすい物語と、時事的な問題がうまく噛みあい、大きな人気を博したのです。

そう考えると、愛国のシンボルとなった「秋海棠」が、当時の中国で話題になり、さまざまなジャンルへのアダプテーションが行われたのは当然のなりゆきともいえるでしょう。

●エフェメラとしての演劇や映画の上演(上映)プログラム

このコーナーでは、「秋海棠」のアダプテーションに関わる、演劇や映画の上演資料などを中心にその広がりを見ていきたいと思います。演劇や映画などの上演プログラムは長期的な使用や保存を前提としない一時的な印刷物であることが多く、公的機関での収蔵も基本的にされてきませんでした。しかし、とりわけその場限りの上演によって成り立つ演劇のような芸術形式を研究する場合とても有益な資料となります。たとえば九州大学の濱文庫、名古屋大学の青木文庫、慶應義塾大学や早稲田大学演劇博物館には中華民国期に日本の中国学研究者が現地で収集した上演プログラムが保存され、重要な演劇研究資料として注目されています。これらのコレクションが京劇を主としているのに対して、本コーナー担当者は、2000年代以降、中国の古書市場に流出している上海地域を中心とした地方劇の上演プログラムを収集してきました。また関連する映画の上演プログラムなども一部展示していますが、アジアの映画資料を集めたデジタル・アーカイブが関西大学アジア・オープン・リサーチセンターで既に公開されていることも記しておきたいと思います(アジアの映画関連資料アーカイブ)。ここでは、『秋海棠』というテーマのもと集めた新収資料を中心に展示しています。今回の展示を通じて、みなさまのご意見ご教示を賜れば幸いです。今後その他の未整理資料を合わせて、さらに研究を進めていきたいと思います。

ところで上演プログラムのことを、中国では一般に「戯単」や「説明書」と言いますが、ここでは伝統劇(劇種ごとのメロディを基にした歌唱や立ち回りなども含まれる)や話劇(日本の新劇にあたるセリフ劇)の上演プログラムを「戯単」、映画については「説明書」という呼称を用いています。そのほか、小説単行本、話劇脚本、「特刊」や「劇刊」と呼ばれる綴じられた形式の刊行物も展示しました。時期は1941年の小説連載開始から1980年代ごろまでに亙ります。

●展示の見方

どこからどのように見ていただいてもかまいません。展示物の順序は、小説、映画、話劇、滬劇になっています。また、一部の展示画像はARCのデータベースにリンクしており、クリックすると資料全体の画像を確認することができます。

※この図は、『申報』1941年1月6日、記念すべき連載第一回目です。

※本研究はJSPS科研費19K00382、21K00328の助成を受けています。

【主要参考文献】

●日本語

木之内誠編著『上海歴史ガイドマップ 増補改訂版』大修館書店、2011年

菅原慶乃『映画館のなかの近代─映画観客の上海史』晃洋書房、2019年

瀬戸宏『中国の現代演劇─中国話劇史概況』東方書店、2018年

高綱博文編『戦時上海 1937~45年』研文出版、2005年

牧陽一・松浦恆雄・川田進編『中国のプロパガンダ芸術─毛沢東様式に見る革命の記憶』岩波書店、2000年

松浦恆雄「京劇戯単の変遷」中里見敬・松浦恆雄編『濱文庫戯単図録 中国芝居番付コレクション』花書院、2021年

邵迎建「「秋海棠」─淪陷区上海のシンボル」『中国研究月報』60巻第5期、2006年

松浦恆雄「四大名旦と特刊」『中国学志』26号、2011年

松浦恆雄「中国現代都市演劇における特刊の役割─民国初年の特刊を中心に」『野草』85号、2010年

後藤典子「映像作家、馬徐維邦と『秋海棠』に関する一考察─前景としてのメロドラマと背景化したポリティクス」『お茶の水女子大学中国文学会報』29号、2010年

三須祐介「もうひとつの『秋海棠』─上海滬劇史の一断面」『広島経済大学研究論集』35巻第4期、2013年

三須祐介「『秋海棠』から『紅伶涙』へ ─近現代中国文芸作品における男旦と"男性性"をめぐって」『立命館文学』667号、2020年

●中国語

范伯群主編『中国近現代通俗文学史』江蘇教育出版社、1999年(特に第一編第三章第十節)

李暁主編『上海話劇志』百家出版社、2002年

汪培他編『上海滬劇志』上海文化出版社、1999年

熊月之主編『老上海名人名事名物大観』上海人民出版社、1997年

上海市文化芸術档案館編『上海舞台芸術説明書集錦』

姜進主編『二十世紀上海報刊娯楽版広告資料長編1907-1966』上海文化出版社、2015年

蘇州市地方志編纂委員会『蘇州市志』江蘇人民出版社、1995年

鎮江市地方志編纂委員会『鎮江市志』上海社会科学院出版社、1993年

丁珊珊「紙上光影:電影刊物與早期中国電影史書写」『文芸研究』2013年第5期

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