B3.0 金閣寺

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 臨済宗相国時派の寺で、北山鹿苑寺というのが正しい呼称。足利義満が西園寺家の山荘を譲り受けて造営した北山殿がその前身。義満没後にその遺言により禅寺とした。夢窓疎石を開山とする。

応仁の乱で金閣(舎利殿)などの一部を除き、ほとんどの堂宇を消失し、江戸時代に入って、復興していったが、昭和25年に金閣が消失。同30年に復原再建した。三島由紀夫の「金閣寺」はその放火事件を扱った小説。

「平野の乾、衣笠山のふもとにあり。禅宗にして、鹿苑寺ともいう。応永四年に将軍義満公〈鹿苑院院殿なり〉 高閣をたて、花美をつくし、金箔を以て一面に粧ひ、閣の前には池広くして、九山八海となづけ、伝ふる奇石さま/゙\あり。金閣三重にして第一を法水院といふ。〈弥陀の三尊、夢窓国師の像、鹿園院殿道義の像あり〉 第二を潮音洞といふ。〈自然木の観音、四天王を安ず〉 第三を究竟頂といふ。〈後小松院勅額あり、板敷三間四面一杖板、四壁の板ことごとく金箔を押す〉 むかしは境地はなはだ広かりしなし、惣門は紙屋川の西、今の地蔵院の傍にあり、礎今にあり。御所を芳徳といふ、金閣の廻りみな池にして、芳徳の間に反橋を架す、池の南に拱北楼あり、巽に小御堂あり、東に地蔵堂〈数体安ず〉 その地を地蔵本といふ、其北に大塔あり、本尊弥勒、方丈の北に一峰あり 縦目峰と号しぬ、北方の奇観此地にすぐれたるはなし。」(『都名所図会』巻六)

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