越後獅子

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えちごじし


総合


歌舞伎

原名題は「遅桜手爾葉七字」(おそざくらてにはのななもじ)。長唄舞踊劇。篠田金治作。 文化八年(1811)、三世中村歌右衛門が中村座で初演した。雪の越後から出て来て、踊りや軽業を見せては金を貰って歩く大道芸人の角兵衛獅子を越後獅子という。江戸の街にいくらもいたものを描写した風俗舞踊で、七変化のうちにとり入れて踊ったもの。当時、歌右衛門の好敵手三世坂東三津五郎市村座にいて、七変化を出し、そのセリフのなかで歌右衛門を非難する文句があったとかで歌右衛門が大いに怒って一夜作りにこの変化舞踊を出して対抗し、見事に勝ったという話が伝わっている。賑やかで変化に富んだ曲なので非常に流行し、海外にまで聞えている。


画題

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解説

東洋画題綜覧

越後国蒲原郡から出る獅子舞で十歳前後の小童が獅子頭を被り種々の芸を演ずるもの、或は身をかゞめ或は逆立ちして手で歩いたりなどする、越後では蒲原獅子といひ、江戸では角兵衛獅子、略しては角兵衛といふ、蒲原獅子の転訛であると、一説に獅子頭の名工の名を取つたものともいふ、応永の頃西蒲原郡月潟村の住人角兵衛が獅子舞を上方から伝へて諸方に勧進せしめたのに始まるともいふ、徳川時代には月潟に三十余の親方があつて、各々七八人の獅子を養ひ年中諸国を勧進して業としたが近頃衰微してしまつた。  (日本百科大辞典) 此の獅子舞を謡つたものに長唄の『越後獅子』があり、舞踊は三代目中村歌右衛門が初演であると、歌詞は次の如くである。 打つや大鼓の音も澄み渡り、角兵衛/\と招かれて居ながら見する石橋の、浮世を渡る風雅者、諷ふも舞ふも囃すのも、一人旅寝の草枕、おらが女房を褒めるぢやないが、飯も炊いたり水仕事、麻撚るたびの楽しみを独笑みして来りける、越路がた、お国名物さま/゙\あれど、田舎訛りの片言交り、しらうさになる言の葉を雁の便りに届けてほしや、小千谷縮の何処やらが、見えすく国の習ひにや、縁を結べば兄やそん、兄ぢやないもの夫ぢやもの、来るか来るかと浜へ出て見れば、のほいの、浜の松風音やまさるさやとかけのほい、まつかとな、好いた水仙好かれた柳、のほいの、心石竹気は紅葉さ、やとかけのほい、まつかとな、辛苦甚句のおけさ節、何たら愚痴だへ牡丹は持たねど越後の獅子は、おのが姿を花と見て、庭に咲いたり咲かせたり、そこのおけさにいなこといはれ、寝まり寝まらず待ち明す、御座れ話しませうぞ、こん小松の蔭で、松の葉のよにこん細やかに、弾いて唄ふや獅子の曲、向ひ小山のしちく竹、いたぶし揃へて、きりを細かに十七が室の小口に昼寝して、花の盛りを夢に見て候、見渡せば見渡せば西も東も花の顔、何れ賑ふ人の山/\、打寄する/\女波男波の絶間なく逆巻く水の面白や/\、さらす細布手にくる/\と、さらす細布手にくる/\と、いざや帰らんおのが住家へ。 この『越後獅子』を画いたものに山川秀峰の作(昭和十一年個展出品)がある。 (『東洋画題綜覧』金井紫雲)