長唄
ながうた
総合
歌舞伎
江戸歌舞伎の舞踊曲として発達した三味線音楽。舞踊の地として、また下座の伴奏として、長唄は歌舞伎劇になくてはならない音楽であるが、語り物の浄瑠璃と違って情緒を唄うものであり、しかも三味線の外に大小鼓、笛、大鼓のおはやしを伴う長唄は、いかにも陽気で爽快である。三味線楽の中では最も降盛で、劇場に、演奏会に、一般家庭に広く行われていた。 江戸時代の初め、上方の盲法師によって三味線伴奏の長篇の唄いものが唄われたが、これが宝永(1704)ころ歌舞伎と共に江戸に下り、江戸長唄といわれた。これより歌舞伎舞踊に伴って発達して、後には単に長唄といわれるようになった。 江戸の中頃には一応大成され、文化(1810)ころより幕末にかけて黄金時代であった。このころには舞踊の変化(へんげ)物が流行して、長唄の曲節は初期と大分変わって来た。杵屋と称する三味線の家を中心に発達し、豊後節系統の浄瑠璃(常磐津・清元・新内など)や大薩摩節などを取り入れて多様な音楽となり、さらに文政(1818-1830)頃から劇場を離れたお座敷長唄を案出した。明治になると劇場以外一般家庭にまで普及し、また今までの型を破った新しい形式の曲が次々と作られた。 曲目は二千くらいあって、題材により「京鹿子娘道成寺」「紀州道成寺」などの道成寺物、「石橋」「鏡獅子」などの獅子物、「正札附根元草摺」「菊寿の草摺」などの草摺曳物、「高砂丹前」「鞘当」などの丹前物、その他と分けられる。また長唄には純粋の曲以外に、歌舞伎芝居の独吟の合方としてつくられた「めりやす」があり、物語り風の「唄浄瑠璃」があり、ほかに劇の荒事に用いられる大薩摩もふくまれている。 長唄は上方唄の移入いらい、坂田兵四郎、富士田吉次をはじめ作曲に演奏に数多くの名人上手があらわれた。現在は、唄に芳村、吉住、富士田、松永、松島、三味線に杵屋、岡安など、囃子に田中、望月などの家があり、それぞれに多くの家元があって活躍しているが、四世吉住小三郎、三世杵屋栄蔵、七世芳村伊十郎、山田抄太郎らが主な人々である。
〈出典:『日本国語大辞典』http://www.jkn21.com/stdsearch/displaymain〉