古典芸能を使った名作CM

 日本のテレビCMにおいて、1980年代になって特徴的に「日本」のイメージを強く押出していく傾向があらわれてくる。この日本のイメージをより強調できる素材の一つに、古典芸能があり、やはり、1980年代がそのピークにあるという傾向が見て取れる。

 古典芸能といっても、さまざまなジャンルがある。たとえば民俗芸能と呼ばれるものは、各地に残る民謡や盆踊り、祭礼時の奉納儀礼なども含まれるが、これらは地方色を濃厚に表現する場合に使いやすい素材であり、地方のアイディンティティを強化する目的のローカルコマーシャルに多くなると予想される。ACC賞の誉れを得た作品が主体である日文研のデータベースの中では、こうしたCMは、少なくなるのは必然であるが、例えば、1976年の「押寿し今昔」(金沢・芝寿し本舗・笹寿し)や、1977年の「まつり」(安藤商店・みそ)などが該当しよう。
 しかし、そうした地方色ではなく、「日本」色を強く押出す可能性がある三大古典芸能、すなわち能楽、歌舞伎、文楽をとりあげたものは、他の芸能に較べて認知度が高い上に、どちらかというと都会的でハイソなイメージを付与できる格好の題材となると予想でき、1980年代前後には、この題材が一つのターゲットになりはじめたものであろう。
 ところで、日本人全体において、こうした古典芸能がどれほど浸透しているかというと、心許ないと言わざるを得ないであろう。たとえば、読売新聞の最近の広告に使われていたコピーであるが、「歌舞伎を見たことのある人 全人口の5%」というように、上記の三大古典芸能の内、もっとも認知度の高いと思われる歌舞伎でも、全人口の5%程度しか見たことはないようであり、「見たことのある」という意味を舞台で生の歌舞伎を見たと解釈しておき、テレビなどで見たことのある人を含めたとしても、絶対に10%は越えないと思われるのである。
 古典芸能の世界は、「梨園」などとも呼ばれるように、ある意味では特殊な閉じられた世界であり、ツテを持つ人間にとっては、その世界との接触は容易であるが、そうでない場合、その敷居の高さは他の世界に比しても各段の違いがあろう。そのため、製作者側がこうした世界にどれほど精通しているかは、ますます以って心許ない。それにも関らず、古典芸能を題材にした場合、作り手、受けて両面からみて、成功したであろう事例は否が応でも少なくならざるを得ないように思う。
 こうした中で、だれもが名品と感じるCMが一つある。1978年制作の龍角散「プロンプター」(代理店:博報堂・制作会社:東映CM)がそれで、全日本CM大賞を獲得している。内容は次の如くである。
 歌舞伎の舞台の黒御簾の内に、陣取った黒子の姿をしたプロンプターが台本を持ち、「弁天小僧」の台詞を付けている。舞台は見えないが、中央ではまさしく大胡座をかいた弁天小僧のせりふが聞えている。途中まで順調に進んだものの「なせえゆかりの~」とつけたところで、おもわず「ゴホン」と一つ咳をしてしまう。プロンプターは、おもわず、裏に控えている狂言方の弟子に、「おい龍角散」と言って龍角散の缶を受取ると、それが舞台の役者に聞えて、まさに台詞のクライマックスで「ゴホォン、龍角散!」。プロンプターの「しまった」という表情と台本でせりふで終わる。
 画面上に登場するのは、御簾裏の狭い空間にうずくまるプロンプターただ一人。その弟子は勿論、役者の姿は一度も映し出さないが、プロンプターの手にあるのは、きちんと表紙に「青砥稿花紅彩画」と本外題の書かれた歌舞伎台本である。
 舞台役者は、公演期間中、かりそめにも体調を崩すことは許されないし、歌手と同じく、台詞が命であればこそ、呼吸器にかかわるような薬品のCMを製作するにあたって格好のターゲットである。そのため、古典芸能にかぎらず役者が本業の舞台の活動の様子を店ながら薬品のCMに登場する企画は多くなるはずである。ところが現在、歌舞伎俳優でCMタレントして、市川海老蔵、松本幸四郎、中村橋之助らの名前をすぐに挙げられるが、かれらが本業の歌舞伎の舞台姿で登場するCMは、皆無である。また、彼らが歌舞伎役者であることを全面に出して、CMを見ることでそれを知ることできるものは、市川海老蔵の場合に、伊藤園のお茶のCMにおいて、助六の扮装をしたカットを数回使う「助六」(お~いお茶)など数編があるが、舞台は全く使わず、スタジオ撮影であり、その他の作品では基本的に歌舞伎役者であることはCMからはわからない。中村橋之助の場合は、例えば、1991年の永谷園本舗「おとなの味」(おとなのふりかけ)では、父親役として一瞬すがたが映し出されるだけであり、梨園の御曹司の一人として歌舞伎側の立場からみれば、贅沢な使われ方と言わざるをえないが、視聴者が彼が中村橋之助であると認識することさえないようにも思う。
 こうした現象は、歌舞伎が現在、実質的に松竹株式会社の独占的演劇であり、その協力を無くしては、舞台映像を使えないという現状が大きく影響していると思われるが、こうした背景の中で、龍角散「プロンプター」は、そのマイナス条件をうまくプラスに転じた絶妙の企画であった。
 この作品は舞台面は一度も写っていないのであるから、劇場でロケされたものではなかったはずだし、もちろん役者の声だけ聞こえるが、これは、その台詞廻しの拙さより判断すれば本職の歌舞伎役者ではない。あきらかに歌舞伎のイメージを使いながらも、余分な出費がない。
 また、「ゴホンといえば龍角散」のコピーをそのまま、プロンプターと役者の間でおこる舞台での営みに当てはめたもので、「<ゴホン>といったら、舞台上であろうとなかろうと<龍角散>である」という主張になっている。歌舞伎では最も有名な名場面の一つである、弁天小僧の浜松屋での開き直った名乗り部分に「龍角散」と商品名を当て、しかも、プロンプターとしては、ちょうど、台詞に間があり、つまり客席からは大向こうの掛声が飛んでくる一瞬をとらえて、龍角散を受取ろうとするなど、歌舞伎を見慣れている我々がみてもそのタイミングの良さが際だっている。
 この台詞が「弁天小僧」であることを理解した視聴者は、それこそ5%にも満たないものであったろうが、プロンプターのしまったという表情と、「龍角散」の商品名は確実に耳に残ったであろう。名作たるゆえんが、冒頭で述べたようなステレオタイプな「日本」的イメージを作るために古典芸能が使われたのではなかったところにあることは間違いない。

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