B1.1 新聞錦絵と「新聞」.

作品名:「新聞図会 第十六号」
絵師:貞信〈2〉
判型:中判錦絵
出版:明治8年(1875) 八尾善板
所蔵:立命館ARC(arcUP7211)

二代貞信は、ちょうど二代目を襲名後に新聞錦絵に手を染めようになる。これは、先輩の芳瀧も同じで、役者絵の需要が激減していくなか、新たなフィールドとして力を入れたものである。新聞錦絵は、明治8,9、10年の三年間という短い期間になくなるが、その間、二代貞信の新聞錦絵は、400種近くが制作されており、驚くべき活動であったと言えよう。
本作は、題名にある「新聞」の文字が墨書により塗り潰されている。これは、この年に明治政府が出した新聞紙条例の影響があると考えられる。東京では、すでに日刊の大新聞が発行されていたが、大阪では、まだ日刊紙が存在していなかった。東京では、小新聞のさらに亜流となる新聞錦絵は、規制の対象にはなるはずもなかったが、大阪では、本来対象となるはずの日刊大新聞がない以上、新聞錦絵が、新聞紙としての役割を担うことになる。当寺の絵師の発言によれば、東京の錦絵新聞の記事を鵜呑みにしたそのままのものや、興味本位で本当かどうか分からないうわさ話までも、脚色を加えて出版したという。江戸時代の流言などを記事にして売った瓦版とほぼ変らない感覚で出版していたのである。つまり、娯楽商品として売れればよかったのである。こうした中で、「新聞」の文字を外すことで、この規制から逃れることができたのであろう。(あ)

記事本文:
「此頃しんぢうニも色々の種類あり 六月二日の夜大阪堂島裏一丁目剪髪職神原辰二郎が助職長兵衛なる者 同町内堀田丑松長女芸妓業阿今と死なんとせしに 女は思ひ掛なき事なれば 浅手のまゝに逃行て其一命を助かりぬ 男は直ニ入水せしが水浅ければ死ニ至らず 再び床店ニ立帰り剃刀逆手へ取直し腹一文字ニかき切る所へ人々馳付介抱せしが 療治届かず翌三日終に絶命ニ及しと 元の発わ知らね共いづれ女にふり付られ憤怒ニたへずせし事か 嗚呼痴なるかな 此類を名付て押付しんぢうともいわん 委しくは報知新聞ニ出づ」