B4-1 勇婦としての巴
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「日本名女咄」「木曽義仲の妾巴女」「巴御前」
絵師:楊州周延 判型:大判錦絵2枚続
出版:明治26年(1893)~27年(1894)頃
所蔵:立命館ARC 作品番号:arcUP5182~5183.【解説】
明治26~27年頃に刊行された周延の日本名女咄という浮世絵版画シリーズの一つ。寛文元年(1661)出版の『本朝女鑑』、寛文10年(1670)出版の『日本名女物語』という、江戸時代の仮名草子に登場する女性たちの物語を浮世絵の題材として使用している。本作は2枚組で粟津の戦いの様子を描いたものであり、巴のほかに主である木曽義仲、兄であるとされている今井四郎が描かれている。『平家物語』の異本である『源平盛衰記』では、巴は木曽の豪族・中原兼遠の娘で、木曽四天王と謳われた樋口兼光・今井四郎兼平の妹とされている。
粟津の戦いにおける巴は紫皮の直垂、萌黄糸縅(もえぎいとおどし)の鎧に鷹羽の征矢を追い、重籐の弓をもって、葦毛の馬に巴摺りの鞍を置いていたとされている。巴は騎射の術、弓馬の芸の達人であるだけでなく、格闘術の達人としても名を馳せた。この粟津の戦いで木曽義仲は殺され、今井四郎は主の後を追い自害してしまう。巴は最後まで義仲とともに戦いたいと申し出たが、義仲の命によりその願いは叶わなかった。巴は二人の死に様を見ることなく、東国の方へと落ち延びて行くのである。
巴は優れた容姿のほかに、「大力」を持つ「勇婦」として知られている。粟津の戦いでは最後の5騎になるまで討たれず、主である源義仲との今生の別れの際には義仲に自分の戦いぶりを見せるため、敵の武将の首をねじ切って殺したという。後世での巴の人気が高いのは、義仲との死別という悲劇性に加え、容姿端麗ながらも男に引けをとらないこの「勇婦」としての一面を備えているからではないだろうか。(板)【画中文字翻刻】
木曽義仲の妾巴女
義仲粟津乃戦ニ破れ 既に最期に至らんとせし時 巴に向ひ 信濃へ下りて 此有様を妻子に語り聞かせよ 敵〇手繁く見ゆ 早々と宣へり 巴女いとど名残は惜まれけれども 主命なれば是非なく落る涙を拭いつゝ山の上にて忍びけるとなり.
【補足】
『平家物語』では武蔵の武将・恩田八郎師重の、『源平盛衰記』では内田三郎家義の首をねじ切っている。後世で出版された多くの浮世絵や物語でも、大力を持ち多くの敵を葬った「勇婦」としての一面が強調されている。
『平家物語』以前にも大力を持つ女性の伝承が残されている。『今昔物語集』巻23の「相撲人(すまひびと)大井光遠の妹、強力の語(こと)」、『古今著聞集』巻10の「佐伯氏長強力の女大井子に逢ふ事並に水口の石の事」にも、類まれなる美貌をもちながら男よりもはるかに優れた大力を有する女性の話が記載されている。『平家物語』における巴の大力は、このような伝承が語られたことを背景として創り出されたのではないかと考えられている。また、このような大力が女性によって潜在的に伝承されていくとする信仰の存在も確認されている。【参考文献】
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陶智子『日本名女ばなし』(新典社、1999)
円地文子監修『人物日本の女性史第三巻 源平争乱期の女性』(集英社、1977)
細川涼一『平家物語の女たち―大力・尼・白拍子』(講談社、1996)
西沢正史編『古典文学作中人物事典』(東京堂出版、2003) -
- 投稿日:
- by 8P
- カテゴリ: B 源平合戦の女たち,B4 巴御前
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