D5 江戸時代最後の本場所

年代:慶応4年(1868)5月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-131

 『武江年表』によって江戸最後の日々を抄出する。正月の項「正月元日快晴。」「〇同十一日夜、幕府去年より大坂表御進発ありしが、故ありて蒸汽船にて還御あり。二月より東叡山に籠らせらる」。三月の項には「〇上野山内締切り、諸人入る事ならず。花の頃、遊観これなし。」「〇三月頃より、人心穏ならず、諸方へ立退くものあり。又闘諍辻斬等多く、夜中は別けて往来少なし。又強盗多し。」五月の項には「同十四日暮時より、俄に昌平橋、筋違橋辺、其の外に官軍方出張ありて、即時に人夫を雇ひ集められ、土俵を積んで土手を築かせらる」「〇同十五日、雨天、暁より官軍東叡山に向はれ、山内に籠り居りし彰義隊と号せし脱走浪士と戦闘あり、谷中辺を始めとして大砲を放され、又三枚橋通へ押寄せ、双方より大砲を発して戦に成り、夜に至り山門其の外に火を放つ、云々」とあり、そのため上野東叡山寛永寺の堂宇の多くは焼亡した。さらに「右戦争夜半に及び、浪士大半亡び、又は逃亡して一挙に鎮まれり。」と続く。同19日には「三奉行(寺社、町方、御勘定)を改め、布政、民政、社寺裁判所と号す」とある。江戸時代が急速に終わっていくことがわかる。

 画像はそのような騒然とした中で行われた慶応4年5月場所、江戸時代最後の番付である。番付には5月中旬よりと書かれているが上野戦争が起こり実際には6月中旬江戸時代最後の本場所が開催された。横綱陣幕は江戸相撲を引退し弟子の千年川、山分を連れて大坂相撲に加入したので、大関にはライバルである鬼面山が復帰した。西前頭2枚目千羽ヶ嶽はこの場所前に急逝して出場していない。『武江年表』にはこの場所のことは何も触れていない。9月に改元して明治元年となったので、冬場所は明治最初の場所となった。

 政治情勢が混乱して市中で戦争まで起きたのに年2場所が行われたのは江戸の人々にとって政治と娯楽を含む生活は切り離されたものであったからであろう。芝居や見世物も大方興行を続けることができたのである。本場所が開催されなかった天明5年、安政2年、安政5年ともに深刻な飢饉や地震、疫病、火事など生活を直接破壊する災害があったからである。このような事実に江戸の人々の生活観が伺えるのである。