D4 安政のコレラ大流行と大火で十一月場所中止

年代:安政5年(1858)11月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-100

 画像はコレラと大火で開催されることの無かった安政5年11月場所の幻の番付である。この年の7月の末頃から江戸市中にコレラが流行った。『武江年表』安政5年7月の項、「同月末の頃より都下に時疫行はわれて、芝の海辺、鉄砲洲、佃島、霊巖島の畔に始まり、家毎に此の病痾に罹らざるはなし(東海道中駿河の辺よりはやり来りしと云ふ)。八月の始めより次第にさかんにして、江戸中幷に近在に蔓延り、即時にやみて即時に終れり(貴人は少なし)」とある。『武江年表』にはこのコレラの病状と町中の様子、人々の有さまを細かく記している。特に魚を食べて罹る人が多いことから魚を食べる人がいなくなり、漁師や魚屋、料理屋の商売が活気を失っていったことが書かれている。「この病に終れるもの凡そ二万八千余人、内火葬九千九百余人なりしと云ふ」また「〇此の頃有名の人にして此の病に罹り物故せるは、△狂歌師六朶園、燕栗園△俳人西馬、得蕪△狂句点者五代緑亭川柳△小説作者山東京山柳下亭種員楽亭西馬浮世絵師一立斎広重軍書講談貞山△浄るり語り三世清元延寿太夫△三味線弾杵屋六左衛門、鶴沢才次、其の余相撲取、俳優、花魁の輩にも多く是ありと聞けり。」とある。『日本相撲史』上巻を読む限り幕内力士など主だった力士でコレラで亡くなった者はいない。画家の鈴木其一もコレラで亡くなったとされる。コレラ騒ぎは10月ごろにようやく一息ついた。

 冬になり11月12日、朝より北西の風が強く吹き、未下刻(午後3時頃)に赤坂三分坂上専福寺門前の町屋から出火、周辺の武家屋敷が多く焼けた。同15日、暁丑刻(午前2時頃)神田相生町の北にある若林氏屋敷より出火、日本橋神田界隈隅田川西岸沿いを巻き込んだ大火となった。『武江年表』には「町小路焼死怪我人算ふべからず。倉庫の焼落たるも甚だ多し。又旋風吹起りて、御堀の端に運び出したる資財雑具を虚空に巻上げたりといふ」とある。江戸の人々には踏んだり蹴ったりの安政5年であった。結局、コレラ禍と大火で11月場所は、番付は発表したものの本場所は開かれなかった。この番付は幻の番付となった。開催されない11月場所の番付が翌場所にそのままスライドするのではなく安政6年正月場所は全く新しい番付が発表されている。どのような基準で番付を編成したのか興味深い。