D3 安政の大地震で十一月場所中止

画題:地震ハ二日乃亥の刻焼止ハ三日乃巳の刻両四時角力取組(要石と鯰の取組
年代:安政2年(1855)
所蔵:東京都立中央図書館
資料no:0277-C050

 安政2年の10月2日夜、大地震が起こった。いわゆる安政の大地震である。画像はその当時描かれた鯰絵と呼ばれる地震に関する戯画で画工は不明である。『武江年表』安政2年の項には「〇十月二日、細雨時々降る。夜に至りて雨なく天色朦朧たりしが、亥の二点大地俄かに震ふ事甚だしく、須臾(短い間)にして大厦高牆を顛倒し、倉廩を破壊せしめ、あまつさえその傾きたる家々より火起こり、さかんに燃上がりて黒煙天を翳め、多くの家屋資材を焼却す。(中略)江戸に於ては元禄十六年以来の大震なるべし(今夜四時より明方まで三十余度震ひ、其の余十月迄百二十度に及べり)後略」。その後は被害の様子が延々と語られている。上野の大仏は「御首落ちて砕くる」とある。吉原も「一廓残らず焼亡」し、芝居の猿若町も全焼した。「深川の地も本所と等して震動甚だしく、潰れたる家々より出火多し」など、その火災の被害は後の関東大震災や東京大空襲を彷彿とさせるほどであった。火災は3日の朝5時過ぎにようやく治まった。「〇此の度変死怪我人、市中の呈状(かきあげ)には変死男女四千二百九十三人、怪我人二千七百五十九人とあり。寺院に葬ひし人は、武家浪人僧尼神職町人百姓合はせて、六千六百四十一人と聞けり」とある。

 相撲興行は番付を発表する前であったが場所を前にしてこの惨状では如何ともしがたく興行は中止となった。このため安政2年は春場所は直前の火災で中止となり、冬場所は地震のため中止となり江戸では相撲興行が一度も無かった。江戸勧進相撲が本格的に成立した宝暦以降、一年間全く江戸での興行が無かったのは大飢饉のさなかであった天明5年(1785)以来70年ぶりのことであった。『日本相撲史』上巻によると嘉永7年2月場所に新入幕した若く有望力士であった黒崎佐吉は安政3年正月場所前に死去している。この震災による死去の可能性がある。