B2-03 阿武松緑之介と稲妻雷五郎

年代:文政11年(1828)10月
所蔵:小島貞二コレクション
資料no:kojSP03-013

 寛政元年(1789)に谷風小野川が横綱を許されて横綱が土俵に君臨する時代が来たが、寛政9年(1797)10月に小野川が引退してから横綱が不在となった。孤高の強さを誇った雷電は何故か横綱免許の声がかからず文化8年(1811)に引退した。土俵は玉垣柏戸の対立時代となったが往年の谷風小野川の強さも無く、横綱になり土俵を支配するまでには至らなかった。

 すでに横綱不在が30年近くなり、相撲人気にも陰りが見えてきた文政の後半に抜群の強さで頭角を現してきたのが小柳(後の阿武松)と稲妻であった。すでに三役力士として十分な実績を残した小柳は文政10年(1827)に阿武松緑之助と名を改め実力大関として活躍した。一方稲妻雷五郎は阿武松より若く文政7年(1824)に入幕してからは滅多に負けることなく阿武松に対抗し一気に大関に上り詰めた。両者の対戦は人気を呼び相撲人気挽回の切り札として久しぶりの横綱免許の機運が盛り上がった。阿武松には2月に、稲妻は京都五条家より9月に横綱免許が授与された。この横綱免許には紆余曲折があったが煩雑になるので割愛する。両横綱の江戸登場は文政11年の10月場所であった。『武江年表』では文政十年の項に「角力取阿武松緑之助稲妻雷五郎に横綱免許」とあるが、実際には文政11年(1828)の出来事である。

 阿武松緑之助は能登国(石川県)鳳至郡七海村の出身で、文化2年(1805)に15歳で江戸相撲の武隈の門に入る。前相撲から取り少しずつ出世し小柳長吉という名で文政5年(1822)10月場所に32歳で入幕した。文政7年に長州藩のお抱え力士となる。入幕してからは力を発揮して負けること少なく長く三役力士として活躍し文政9年(1828)大関に昇進した。文政11年に横綱を許された。幕内にあること14年、天保6年(1835)10月場所を最後に46歳で引退した。取り口は慎重で待ったが多く、待ったが多いと「阿武松じゃあるめえし」という軽口が流行ったと『甲子夜話』にある。また苦労を重ねて出世したことから阿武松の入門時代のことを題材にした落語「阿武松」も有名である。嘉永4年(1851)12月61歳で没した。

 稲妻雷五郎は常陸国河内郡阿波崎村の出身で、文政3年(1820)に江戸に出て佐渡ヶ嶽の弟子となった。文政4年に幕下幕尻5枚目に付け出された。順調に出世して文政7年(1824)10月場所に29歳で入幕した。雲州松江藩のお抱え力士となり前名槙ノ島から稲妻雷五郎と改めた。文政11年10月場所には大関に上がり阿武松と対立した。最初京都五条家から横綱を許され、その後吉田司家からも許された。天保10年(1839)に46歳で引退するまで15年に渉り幕内にあり負けはわずかに13回と谷風、雷電に匹敵する成績を挙げた。阿武松との対戦成績は4勝5敗1預5分であった。阿武松以外に2回以上負けた力士はいなかった。稀に見る怪力の逸話や文人として俳句や文章も残っている。当時としては長寿で明治10年(1878)82歳で没した。辞世の句は「稲妻の去りゆく空や秋の風」というものであった。