A2 江戸相撲の中興

書籍名 貞享武鑑
出版  貞享3年(1686)
所蔵  国文学研究資料館 三井文庫旧蔵資料
資料no 200018714

 史実として確実な江戸相撲の始まりを紹介する。『武江年表』には「〇寄相撲寛永年中興行、後度々願候へ共御聞済之れ無きの処、貞享元年八月、寺社奉行本多淡路守殿へ相願ひ、勧進寄相撲御免仰せ付け被れ候に付き、深川八幡宮境内にて始めて興行す」。とある。
 江戸幕府創立の頃は戦国の殺伐とした気風がまだ冷めず、勧進相撲と言っても、浪人、力士、侠客入り乱れ興行のたびに紛擾争闘の絶えないありさまであった。慶安元年(1648)二月に辻相撲の禁令が発せられ、同四年にも追加の禁令が出た。お上に依る厳しい取締りが行われた。逆に言えばそれだけ人々が相撲に熱中した証拠でもあった。しかし、次第にそれが緩んで禁を犯すものが出てきたので、寛文元年(1661)に再度禁令が出て町中での相撲興行は出来なくなった。しかし、この禁令は町中や盛り場での興行は禁止だが寺社内での興行は可能であるとも解釈でき、全面的一方的な禁令でもなかった。このように相撲興行は閉塞状況にあったが、貞享元年雷権大夫が願い出て寺社奉行本多淡路守のとりなしで深川八幡宮境内での8月興行が公式に許された。江戸相撲の中興である。しかし番付など興行に関するものは残っていない。相撲の番付の中央上部に「蒙御免」と書かれているのは勧進相撲興行が幕府公許のものである印である。いわば天下御免の興行であった。

 画像は『貞享武鑑』に記された寺社奉行本多淡路守の項。右側の丁の中ほど「寺社奉行」の二人目。「壱万石 本多淡路守 やしきかじばし内」とある。本多淡路守は本多忠周(ただちか)という。徳川四天王の一人本多忠勝の孫本多忠義の五男で7000石の旗本。天和3年(1683)寺社奉行に就任して加増され1万石の大名となった。領地は三河国足助藩である。貞享4年(1687)職務怠慢で寺社奉行を罷免され、加増分は没収され旗本寄合へ戻った。足助藩は廃藩となり本多家は7000石の旗本として明治まで残った。淡路守は目だった業績も上げることもなかったがそれほど強い思いがあって許したわけではないであろう勧進相撲がその後発展して現在につながることを考えると、彼の決断はこと相撲界にとって大きなものであったと言える。