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作品名 「美勇水滸伝」シリーズより「明石志賀之助」
画 月岡芳年
制作 慶応3年(1867) 8月
資料no MFA-11.35930『武江年表』寛永元年(1624)の項に「〇明石志賀之助寄相撲と号し、四ッ谷塩町にて晴天六日興行す(江戸勧進角力の始めなるよし、「古今相撲大全」に見ゆ) 筠庭云ふ、「相撲大全」誤り多し。取用ひがたし。明石志賀之助がときは、寛永にあるべからず。其の故は延宝中の一枚摺りの絵に、これが相撲の図あり。又此のものと丸山仁太夫、京都にてすまふ取れる由物語りあり。侠客伝にも見ゆ。彼の仁太夫延宝頃のすまひ取りなり。志賀之助相撲を江戸勧進相撲の始めといへるは、非なること知るべし。若しこれを寛永のこととしても、いたくおくれたり。然にはあらじ。勧進すまふ上み方には、永禄以来文禄中盛りなり。四谷塩町は某の寺社の地にか、さもなくば寛文元年にも法度みえたり。猶くはしくは「嬉遊笑覧」四の巻にいへり」とある。この寛永の相撲興行の記事は『武江年表』における最初の相撲記事である。画像は月岡芳年画の「美勇水滸伝」シリーズの中から「明石志賀之助」である。この明石志賀之助は講談の中の人物であり実在の明石志賀之助とは何ら関係ないが、江戸時代の人々が考えていた強豪力士明石志賀之助の面影を表現している。
斎藤月岑の時代から見れば寛永ははるか昔であり、その事蹟は後世の書物によってたどるしかなかった。ここにもあるように寛永元年のこの興行の信ぴょう性は当時でも疑問視されていた。そのときのものという番付もあるが偽作はあきらかであった。明石志賀之助が行った四ッ谷塩町の興行は歴史的には根拠のない伝説に過ぎない。しかし、その伝説から派生した講談や小説は後世にも人気を博し、芝居にも仕組まれた。明石志賀之助という名の力士は実在はしたようであるが、時代的には寛永ではなく寛文・延宝年間で寛永からは50年ほど後の力士であったらしい。いずれにしても信頼すべき番付も勝負付けも無いので伝説の力士である。江戸勧進相撲の真の歴史的経緯はA2以降でご紹介したい。 -
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A1 江戸勧進角力の始まり