C09明治・京都の劇場外観

「夷谷座劇場外観」
English Commentary
絵師:未詳 判型:大判/石版
出版:明治28年(1895)4月京都
資料番号:arcUP5025 所蔵:立命館ARC.

【翻刻】
夫レ演劇場ハ江湖ノ一楽部ニシテ 古今人情世態変遷如何ト省ノ所ニシテ 中古之録之世ニ 出雲ノ国女出テ始メテ歌舞妓ノ名世ニ現ワル 是女俳優ノ祖ニシテ我国演劇ハ女流ヨリ起レリト云フモ不可ナキナリ
茲ヲ以テ 我レ明治ノ始ヨリ女俳優ヲ纏メ 其流レヲ継続ス 其妓芸ハ史乗ノ実事 忠臣孝子ノ流落 苦行悪人利己ノ一時僥倖人観之憂怒ノ心生ス 因テ糸竹管弦ノ声律ヲ加ヘ 和之勧善徴悪ノ道ヲ教示ス
故ニ欧西各国亦劇場ヲ以テ官民ノ一楽土ト為ス 今回官家ノ許可ヲ蒙リ 弊座ヲ改造ス 堅固ヲ旨トシ衛生ヲ計リ 運動場ヲ設ケ 場内ハ御観客方之見透シ易キヲ専一トシ 座中ノ者供百事勉強仕候間 舊ニ倍シ御誘イ被合 永当/\ 御来観ノ程 奉希上亥者ハ
 京都市新京極 劇場夷谷座主
明治廿八年四月 日 杉本五兵衛

【解説】
 明治9年(1876)3月に新京極誓願寺前に開場した劇場。明治16年1月19日に水場から一度出火しており、その際の西京新聞にて約500人の観客が出口に殺到したとの記事があるため、収容人数から中規模の劇場であったことがわかる。
 開場当初は身振り狂言や女芝居といったものを上演、好評を博した。女歌舞伎の禁止以後、女性が舞台に立つことが無くなっていたが、明治5年から芝居・劇場に関する規制が緩和されたことから夷谷座では女優が舞台に立つこととなった。作品の中でも女優について述べられており、当時としては先進的な考え方を打ち出した劇場であったことがわかる。そのためか、夷谷座は不景気時にも大入りをみせ、度々新聞上でその盛況ぶりが報じられている。

 夷谷座は明治28年に西洋の劇場を模した3階建の劇場に改築した。明治11年に開場した新富座以来、日本の劇場にも、運動場(現在の劇場内ロビー)が作られるようになった。この刷物から夷谷座も28年の改築時に運動場が備え付けられたことがわかる。また、劇場は長時間大勢の人間が密集して過ごすため不衛生な場所であったことから、頻繁にコレラなどの感染症が発生し、その都度興行差し止めになる劇場が数多く存在した。特に劇場の便所は不衛生になりがちであったが、夷谷座に関しては座主の杉本五兵衛が衛生面に気を遣う人物であったため明治19年の段階で、「府下の各劇場及寄席等の便所の不潔なることは何れも同様にして、悪嗅堪へ難き処なるが、独り新京極夷谷座のみは座主杉本五兵衛の注意行届きて便所の構造を巧にし、尚演技中は掃除人をして、之を清めしむるを以て一曇も厭ふ可き嗅気なく、看客に取りては実に幸なることなるが・・・(略)・・・」(中外電報、明治19年4月30日)と報じられている。このような記事からも夷谷座は劇場環境を整えることでも民衆の支持を集めていた。また、28年の改築でも積極的に衛生面の向上に取り組んでいることがわかる。
 明治33年には松竹合名社が仕打となり益々劇場としての輝きを増した。明治35年2月27日に京都演劇改良会協議が開かれ、座主の杉本や夷谷座の仕打の白井(松竹合名社の中心人物のひとり)も名を連ねた。その後も定期的に開催される演劇改良関連の協議に夷谷座も参加していることから演劇改良にも力を入れた劇場であったと考えられる。(青.)

【用語解説】
 身振り狂言、京都演劇改良会