C08明治の歌舞伎劇場

「久松座新舞台繁栄図」
絵師:周重 判型:大判/錦絵3枚続
上演:明治13年(1880)7月13日東京・久松座
資料番号:arcUP0317-0319 所蔵:立命館ARC.

【解説】
 久松座は、明治12年(1879)8月に以前小芝居であった喜昇座から大劇場へと転身する。明治13年2月に火災によって裏に仮劇場を建たが、この劇場図は仮劇場となってから初めての興行の風景を描いている。
 舞台には右から久松座の帳元・紀岡権兵衛、座主・高浜数勲と役者の片岡我童、市川九蔵、市川団枡、尾上多賀之丞が舞台に登っている。
観客席には、後に久松座の興行師となる田村成義や劇場建設時の出資者である依田柴浦と思われる人物が描かれている。依田柴浦は新富座の華々しい様子を目の当たりにし、出資を決断したと考えられている。小芝居出身の久松座がこれほどまで立派な劇場を持てたのは出資者の依田柴浦によるところが大きいと考えられる。
 久松座は前年に登場した改良劇場と位置づけられる新富座の様式を意識した劇場である。明治時代は演劇改良が叫ばれ演劇内容だけでなく、劇場の構造も変化が現れた。観客席には一部椅子席が設けられていたという。本図では、役者・観客双方散切頭の人物が入り交じり、変わりゆく劇場・人々の様子が見て取れる作品である。焼失後の仮劇場ということで、観客用の椅子席はなくなっているが、検閲席の椅子席は描写されている。
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 劇場の検閲は「検分(見聞)」といい、下検分と本検分の2種類があった。下検分とは、事前検閲のことで初日を迎える前に台本などを提出する。本検分とは、実際に興行が始まってから劇場で行われる検閲のことで、この検閲は、抜き打ちで行われるため常に役人専用の桟敷席を確保しておかなくてはならなかった。役人専用の桟敷席は「役場(役桟敷)」と呼ばれ、この席を設けることが義務とされていた。明治初頭も役場は設けられており、今回の作品の中で唯一椅子席の描写がある桟敷席も役場となる。
 意欲的に活動した久松座は、結局長くは続かなかったが、後に千歳座、日本橋座、明治座と名前と姿を変えながらも今日まで残り続けている。(青.)

【用語解説】