D02二代目市川団十郎

「市川団十郎 おなじく升五郎 ぢぐちかけ合のせりふ」
絵師:鳥居 判型:細板/漆絵
出版:享保18年(1733)1月江戸・市村座
外題:「栄分身曽我」
資料番号:arcHS03-0007-3_01 所蔵:立命館ARC.

【解説】
 元禄1年(1688))~宝暦8年(1758)9月24日没(享年71歳)。初代市川団十郎の子として生まれ、元禄10年、市川九蔵で初舞台。親の団十郎が刺殺され、宝永1年(1704)7月に団十郎を襲名、享保20年(1735)11月に市川海老蔵を名乗る。

  初代団十郎によって確立された荒事は二代目団十郎に継承されることによって家の芸へと昇華されることとなる。とはいえ、このころはまだ市川宗家に対する支持などあるはずもなく、若い団十郎は、親の七光りだけでスターになることはできなかった。宝永6年の「傾城雲雀山」の久米八郎で艾売のセリフが大当たりをとったことを転機に、「役者の氏神」と称され、江戸歌舞伎を代表する名優となっていく。千両役者という称号も、二代目が初めである。団十郎は、「助六」など、後に歌舞伎十八番となる舞台の半数ほどを初演、初代から継承された荒事を磨き上げ、更にその美貌も相まって和事の芸も取り入れるなど、歌舞伎界における市川家団十郎一門の名声を確固たるものとする働きをみせる。また、享保2年(1717)には、近松門左衛門作「国性爺」を演じる。義太夫狂言を演じたのは、二代目団十郎が江戸の役者で初である。以降、近松の演劇をよくし、他の役者たちも義太夫狂言を演じるようになる。享保20年には、養子に三代目を継がせ、以降、二代目海老蔵を名乗り、高評を受け続けた。
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 寛宝元年(1741)大阪に上った。初代も京都に上ったことがあったが大阪に上ったのは二代目が初である。佐渡島長五郎という大阪の役者が道頓堀の大西の芝居で座元を務めることになり、二代目を迎えたのであった。『佐渡島日記』に、当時の交渉にまつわるエピソードが残っている。
 かつて江戸にいた時に、二代目が「あなたが座元をするなら、いつでも大阪へ行くよ」と言ってくれていたのを思い出した長五郎が、手紙を出して相談に及んだところ、「給金二千両で、手付金を五百両欲しい」と返事があった。長五郎は「歌舞伎芝居始まりて以来、給金二千両取る役者聞きも及ばず。稀なることを申しこされしと、はなはだおもしろく」思って、さっそく手付金の五百両を送ったという。その給金に見合うだけの働きをするだろうと思ったが故の行動であった。
 大阪の顔見世は「万国太平記」。この狂言で二代目は「外郎売」のセリフを言ったところ、客の中にこれを早口に言って妨害したものがいた。彼は即座にこれを末尾から逆に言って見物の肝をつぶさせたという伝説が語られている。彼のセリフ術の人並みはずれた巧さを反映したエピソードである。(石)