D01初代市川団十郎

「古今俳優似顔大全」「不破 元祖団十郎」
絵師:豊国〈3〉 判型:大判/錦絵
出版:文久2年(1862)8月江戸
資料番号:arcHS03-0007-3_10 所蔵:立命館ARC.

【解説】
 市川団十郎の歴史とは、そのまま歌舞伎の歴史である。その初代は約350年前に誕生した。当時まだ無名であった団十郎はその後、長きにわたって語り継がれる存在となるのである。歌舞伎界には数多くの家があるが「宗家」と呼ばれるのは、市川宗家、つまり市川団十郎家のみである。徳川時代、代々の団十郎は「芝居の氏神」と呼ばれた。団十郎のみが、役者の中で別格であった。なぜ数ある役者の中で団十郎だけが特別なのだろうか。そこには初代のみではない、語り継がれた代々の功績の上に成り立っている。今回は初代を始め、二代、四代、五代、七代、八代、九代それぞれの活躍とともに、あまり知られていない逸話なども踏まえ、世間の「団十郎贔屓」がどのようにして形となったのかを紹介する。
 万治3年(1660)~元禄17年(1704)2月19日没(享年44歳)。最初14歳で初代市川海老蔵、16歳で団十郎となる。初代市川団十郎の初舞台は延宝元年(1673)9月、中村座の『四天王稚立』であった。坂田公時を演じた団十郎は、紅と墨で顔を隈取り、全身を赤で塗り豪快に立ち廻り、これが荒事の創始だといわれている。その後、次々と市川家の家の芸の原点となる役を演じ、人気を高めていく。元禄6年には上京し、翌年、京の村山座で荒事を演じた。
 この上京を機に椎本才麿に入門し、俳諧を始め、「才牛」という俳名を与えられ、これが役者の俳名のはじめとされる。また、団十郎は「三升屋兵庫」というペンネームで劇作も務め、成田不動の霊験記を自作し不動を自演して大当たりをとったことなどから、「成田屋」という屋号を使うようになる。これは役者の屋号のはじめと伝えられる。元禄17年、団十郎は市村座に出演中、生島半六という役者に舞台上で刺され命を落とす。享年44歳の、早すぎる死だった。
 本図は歌舞伎十八番の一つ『不破』を初代が演じている図である。歌舞伎十八番のほとんどの初演はこの初代と二代目によって行われている。初代はこの「不破」の他にも「鳴神」「暫」「嫐」「像引」「勧進帳」の合計6演目を初演した。(黒.)

【用語解説】隈取荒事屋号