C04猿若町一丁目

「東都名所 芝居町繁栄之図」
絵師:広重〈1〉 判型:大判/錦絵
出版:天保13年(1842)頃江戸
資料番号:arcUP2734 所蔵:立命館ARC.

【解説】
 猿若1丁目、中村座前を描いた作品。左側の建物が中村座で、屋根には櫓が掲げられている。櫓は各座の定紋が染め抜かれた櫓幕をまとわせ、興行権があることを示す役割がある。天保の改革以降、官許を得た劇場のみが正式的に興行できるというシステムで、櫓がその証明となっていた。江戸において歌舞伎興行が許された座は、中村座・市村座・守田座で、江戸三座と総称された。猿若町は江戸の芸能関連の全てのモノを集めて形成されているため、江戸三座に加え、芝居茶屋や薩摩座のような人形浄瑠璃劇場も猿若町に含まれていた。薩摩座は猿若町が解体される明治5年以前の慶応2年に一足早く猿若町から離れることとなるためこの作品は慶応2年以前の猿若町の風景を描いたものである。
 また、中村座から少し離れた場所にもうひとつ櫓が確認できる。この櫓は中村座との位置関係上、市村座であることがわかる。劇場が一直線上に並んでいるため、この通りは常に大勢の人が行き交っていたのだろう。猿若町の全体の位置関係については「呼子鳥和歌三町 全図」「江都名所之内猿若街之図」で述べる。
 この作品で特に目を引くのは劇場前を埋め尽くす大勢の民衆である。料理を運ぶ人、劇場や茶屋の2階から外を眺める人、劇場正面に座り呼び込みをする人、札の受渡しをする人、仕切り場の面々である。劇場前は、男女問わず実に様々な様子がうかがえる。
 天保の改革の中心人物となった水野忠邦は歌舞伎やその周辺のものを一箇所に集めることで、芸能を江戸の日常生活から隔離しようとした。しかし、観劇には、不便になったが、歌舞伎やその他の芸能の人気は決して衰えることはなかった。猿若町は現代のテーマパークのような賑わいを見せていたにように感じ取れる。(青.)