C02猿若町見取り図

「呼子鳥和歌三町 全図」
絵師:芳藤 判型:大判/錦絵3枚続
出版:江戸
資料番号:arcUP4992,4993,4994 所蔵:立命館ARC.

【解説】
この2作品は猿若町の全体を描いたものである。
 猿若町とは、天保の改革時に作られた芝居町のことである。天保の改革以前の歌舞伎劇場は地域が限定されることはなく、堺町や木挽町、葺屋町と様々な場所に劇場を構えていた。猿若町移転の経緯については、「猿若街細鑑」にて述べる。
 この2作品から、猿若町1丁目に中村座・2丁目に市村座・3丁目に森田座(河原崎座)と江戸三座が並ぶ形をとっていたことがわかる。
また、歌舞伎劇場だけでなく、人形浄瑠璃専用劇場の薩摩座や結城座が確認できる。
・「呼子鳥和歌三町 全図」
町全体が囲われ、4カ所木戸が設置されている様子からも芝居町が閉鎖された空間であったことがわかる。各建物は色分けされていて、紅色は劇場・役者の住居関係、黄色は茶屋・湯屋・たばこ屋・酒屋など芝居に欠かす事のできないものが示されている。(色無しは空き地か?姥ヶ池がある)
三座にはそれぞれの紋が描かれ、各座の座元の家にも紋が描かれている。中村座の紋は「隅切角+銀杏」、市村座の紋は「丸+橘」、河原崎座の紋は「角違い+二つ巴」であり、中村座の座元は中村勘三郎、市村座の座元は市村羽左衛門、河原崎座の座元は河原崎権之助であることがわかる。江戸において座元とは興行権・劇場の所有、一座のまとめ役と3つの権利を持つ人物のことで各劇場に必ず1人いる。江戸時代は幕府からの許可がなければ正式な歌舞伎興行ができず、その許可を得られるのが座元であったため、座元は必要不可欠な存在であった。
ところで、江戸三座といえば、中村座・市村座・森田座であるが「呼子鳥和歌三町 全図」には森田座のかわりに河原崎座が描かれている。これは河原崎座が森田座の控櫓であるためである。控櫓とは、中村座・市村座・森田座の三座が何らかの理由で興行できなくなった時、代わりに興行する劇場のことである。控櫓の対は本櫓といい、江戸三座が本櫓にあたる。それぞれの控櫓は、中村座が都座・玉川座、市村座が桐座、森田座が河原崎座であった。本櫓の休座は芝居茶屋など劇場周辺で生計を立てている人々にも大きな影響を与えたことから控櫓の制度が誕生した。この控櫓の制度が誕生したきっかけは森田座にあるとされている。当初、本櫓の休座によって多くの芝居関係者から本櫓以外の興行の許可を願い出ていたが、その申請が受理されることはなかった。しかし、森田座の座元より正式な休座届けが提出されたことで控櫓制度が導入されることとなった。森田座は本櫓の中でも一番休座が多く、享保20年より約10年間河原崎座に興行を託している。その後も幾度となく興行不振に陥り、その都度河原崎座が興行を行っていた。猿若町移転時も河原崎座が興行し、安政2年9月まで河原崎座による興行が続くため、この作品は猿若町移転時の天保14年(天保の改革は13年だが実際の移転は14年5月)から安政2年9月までの猿若町の様子を描いたものである。また、歌舞伎劇場だけでなく、人形浄瑠璃専用劇場の薩摩座や結城座が確認でき、江戸全ての芸能を猿若町に集結させたことがわかる。市村座向かいにある結城座は猿若町移転前も葺屋町にて市村座の向かいに劇場を構えていた。中村座の向かいにある薩摩座も移転前は堺町に劇場を構えていたため、1丁目は堺町、2丁目は葺屋町、3丁目は木挽町の町並みをそのまま移したと考えられる。
 劇場部分を見ると、座名の横に櫓付料理茶屋等の記載があり、記号によりその茶屋と劇場との関係が読み取れる。櫓付とは劇場専属茶屋と読み取れ、その茶屋を利用することで桟敷席の確保ができる。また、一説によると茶屋は興行ごとに座元に金銭を支払っていたようで、この支払金額によって配当される桟敷の善し悪しが決まっていたのかもしれない。
・「江都名所之内猿若街之図」
 森田座が描かれていることから安政2年9月以後の猿若町の様子を描いた作品である。「呼子鳥和歌三町 全図」と多少配置が異なるが、紅色は役者、黄色は茶屋の位置を示している。町の様子を見ると、劇場前の大通りには大勢の人々が描かれ、猿若町全体の賑わいが伝わる。また、至る所に片岡仁左衛門や沢村田之助など役者の名が入った幟が掲げられており、当時の各座出勤役者の人気どころの名前が並んでいる。この幟は各役者の贔屓客による贈り物で、幟以外にも様々な品が役者の元に届けられた。(青.)
【用語解説】