D06八代目市川団十郎

「市郎別当初祐経」
絵師:豊国〈3〉 版型:大判/錦絵2枚続
上演:嘉永4年(1851)1月13日江戸・市村座
外題: 「蓬莱山世嗣曽我」
資料番号:shiUY0224,0225 所蔵:立命館ARC.

【解説】
 文政6年(1823)~嘉永7年(1854)没。最初、二代目市川新之助、文政8年(1825)3歳で六代目海老像を襲名。天保3年(1832)3月父七代目市川団十郎のが海老蔵を名乗るときに10歳で八代目団十郎を襲名する。
 襲名時に父である7代目団十郎は、《親に似ぬ子は鬼子と申しまするが、私の下手が似ませぬ様に鬼子になり升て、行々は御ひいき持ちまして、名人の数にも入り升やうに偏に奉願上ます》と口上を述べた。以降、父同様多芸に秀で、その美貌も相まって人気を集める。天保13年、父が奢侈贅沢禁止令で町奉行所に摘発され江戸十里四方追放となったあと、若くして一人で市川家を守る重圧に耐えた。これに対して幕府からは孝行を賞美して報奨を得ている。嘉永2年(1849)3月河原崎座に上坂名残として「勧進帳」に弁慶役で勤め、父母を案じる口上を述べる。父の江戸復帰後も、同5年9月父の「勧進帳」一世一代に富樫、親子で勤める。また、安政2年(1855)7月やはり父に随い名古屋に出演のあと、8月やはり父に頼みで大阪に入るが、その初日に突然の自殺により、人気絶頂の最中、32歳の若さでこの世を去る。
 父への孝心、先祖代々への尊敬、市川家の当主としての責任など、重圧が様々あったものと思われる。
 本図では、やはり座頭役者がつとめる曽我の対面の場の工藤祐経を演じているが、この工藤を得意とした五代目団十郎の似顔が入った軸を開いているように、代々の演技を意識する演出だったようだ。
 八代目団十郎の死は、大坂という江戸を離れた土地での出来事であり、かつショッキングな死に方であったため、死を惜しむ死絵が300点以上、本も数種刊行された。(黒.)