D07九代目市川団十郎

「不動明王 文覚上人 市川団十郎」
絵師:国周 版型:大判/錦絵3枚続
上演:明治22年(1889)6月13日東京・中村座
外題:「那智瀧祈誓文覚」
資料番号:shiUYa0100~0102 所蔵:立命館ARC.

 天保9年(1838)~明治36年(1903)9月13日没(享年66歳)。最初〈3〉河原崎長十郎、嘉永5年(1852)より〈1〉河原崎権十郎。明治6年(1873)から明治7年〈1〉河原崎三升。明治7年(1874)7月から〈9〉市川団十郎。
 七代目の市川団十郎の五男で、座元の河原崎家の養子となる。養父の河原崎権之助が惨殺される悲劇に見舞われるが、明治7年(1874)に市川家に復帰、市川団十郎を名乗る。
 権十郎時代は、若手役者として活躍するも「大根」と言われ、目立った活躍がなかったが、市川家に復帰することで、役者の代表としての自覚を強めた。
 明治新政府の下、歌舞伎を欧米の諸国にひけをとらない「高尚」な演劇にしていこうと政府の高官と連携し演劇改良運動を展開した。その一つの試み歴史的な事実を出来るだけそのままに演じる「活歴」であるが、観客からの支持は得られず挫折した。一方、より心理描写に重点を置き、表情や動作にあまりあらわさず、内面的におさえた静的な演技である「腹芸」という独特の演技術を開拓した。体躯は小柄で、馬面で出目と言ってもよいほどのぎょろ目であったにも関らず、演技力により女方にも抜群の評価を得ており、所作事にも秀でた。
 晩年は、劇聖と称され、市川家の「役者の親玉」「江戸の飾海老」とも称された市川代々の中でも引けをとらない実績をもって、その権威を不動のものとしたのである。(A.)