F2-2 境界を越えた女

『能楽図絵』「安達原 一名黒塚」

絵師:月岡耕魚 判型:大判錦絵
出版:明治34年(1901)
所蔵:立命館ARC  所蔵番号:arcUP0962.

【解説】

 明治時代から大正時代にかけての浮世絵師、耕魚によって作成された『能楽図絵』に収録された作品の一つ。

 謡曲『黒塚』において、閨を覗いた祐慶上人らを鬼女と化した女が襲う場面を描いている。この場面において襲われた祐慶上人らの神仏の加護にて退散する。

 『黒塚』において、シテである女に名は無く、その一方でワキたる上人には「那智の東光坊」という拠点、そして「祐慶」といった固有名詞を持っている。ここにおいて、女と上人の間には、日々の積み重ねであり前進するしかない日常、そしてそれに関連付けられる固有名詞と、その一部に執着し、日常から疎外されたものたる無名にして無情の存在であるといった明確な溝が存在する。寄る辺があり、今を蓄積する場所がある東光坊阿闍梨祐慶、そして無名にして無常の一つ家で、過去に囚われ停滞する女。その溝はあまりにも大きいだろう。

 鬼女に変貌した原因は作中の「安達ヶ原の黒塚に隠れ栖みしもあさまになりぬ、あさましや恥ずかしの我が姿や」との一節からも、上人らが閨を覗き、その中に存在する酸鼻極まりない情景を目撃したことに起因している。ここから、他の鬼女物たる「道成寺」、「葵上」とは違い、そこには身を焼く恋情、恨みではなく、悍ましい様を目撃された怒り、あるいは羞恥が感じられる。

 閨の戸こそが、女にとって一つ、過去と今、彼方と此方を区別する境界であり、同時に人と鬼の境界となっている。それを約束を破る、という最悪の形で侵害されたことにより女はその羞恥、怒りをもって、過去であり、同時に鬼の側に踏み込んでしまったとも言えるだろう。(柴)