B2-21-01 塩冶判官 尾上菊五郎〈5〉ほか 大星由良之助 市川団十郎〈9〉ほか

絵師:周義
出版:明治11年(1878)
判型:大判錦絵2枚続
所蔵:赤穂市教育委員会市史編さん室
作品番号:AkoCH-S0036-01~02

 
 明治11年(1878)11月から12月に東京の新富座で上演された『仮名手本忠臣蔵』の四段目に取材したもの。切腹する判官と国元から駆けつけた由良之助を描く。このときの舞台は、「団・菊・左」を中心とする当時の名優たちによって主な役すべてが日替りで演じられて大当たりをとった。判官と由良之助も、図の上部に描き込まれた巻物に記載されているように、それぞれ5人の役者が毎日替りで演じた。本図の最大の特徴は、判官と由良之助の顔の部分にそれぞれを演じた役者の似顔が重ねて貼られ、めくって見ることができる子持絵になっている点である。それぞれの役者は上から順に次のとおりである。

 判官 〈5〉尾上菊五郎→〈1〉中村宗十郎→〈1〉坂東家橘→〈1〉市川左団次→〈9〉市川団十郎

 由良之助 〈9〉市川団十郎→〈5〉尾上菊五郎→〈1〉市川左団次→〈3〉中村仲蔵→〈1〉中村宗十郎





尾上菊五郎〈5〉 
1844-1903。12代目市村羽左衛門の子。前名13代目市村羽左衛門、4代目市村家橘。俳名梅幸。屋号音羽屋。嘉永4年(1851)13代目市村羽左衛門を襲名して市村座の座元となる。文久3年(1863)4代目市村家橘を襲名、さらに明治元年(1868)5代目菊五郎を襲名した。幕末から明治にかけて活躍し、9代目市川団十郎・初代市川左団次とともに「団・菊・左」と並び称された。家の芸といわれる写実的演技、型の完成、形式の重視を自らの芸風とし、『土蜘』『茨木』『戻橋』など「新古演劇十種」を制定して家に残した。

市川左団次〈1〉
1842-1904。大坂で床山の子に生まれる。初名市川辰蔵。前名市川小米、市川升若。俳名莚升・松蔦。屋号は高島屋。4代目市川小団次の門下となり小米、升若を経て、元治元年(1864)小団次の養子となって左団次と改名し、江戸の各座に出るようになる。慶応2年(1866)に小団次が没した後一時廃業していたが、河竹黙阿弥の後援で復帰し、明治3年(1870)3月守田座の黙阿弥作『慶安太平記』の丸橋忠弥が大当りとなり人気役者となった。明治26年明治座を新築し、座元・座頭として活躍し、9代目市川団十郎・5代目尾上菊五郎とともに「団・菊・左」と称され、明治期の歌舞伎界を牽引した。容姿・口跡にすぐれ、堅実な芸風で立役として史劇に本領を発揮した。

中村仲蔵〈3〉
1809-86。前名初代中村鶴蔵。俳名雀枝・秀雀・舞鶴など。屋号成雀屋・舞鶴屋・栄屋。5代目中村伝九郎の門人。嘉永6年(1853)3月中村座『()話情浮名横櫛(わなさけうきなのよこぐし)』の蝙蝠安(こうもりやす)が出世役。慶応元年(1865)3代目仲蔵を襲名。時代物・世話物を得意とし、敵役・実悪を兼ね、武道事・所作事もよくした。

中村宗十郎〈1〉 
1835-89。名古屋の人。初名嵐亀蔵。前名中村歌女蔵、3代目三枡源之助。俳名千昇・霞仙。屋号末広屋。大坂に出て2代目中村翫雀門人中村歌女蔵と改め、さらに4代目三枡大五郎の娘婿となり、万延元年(1860)3代目三枡源之助を襲名。元治元年(1864)中村雀右衛門門下となり、中村宗十郎と改名した。明治7年(1874)中座の座頭となり、明治9年から5年間東京の舞台に立ち、「団・菊・左」らとしのぎを削った。上方では初代実川延若・(じつかわえんじゃく)初代市川右団次とともに「延・宗・右」と呼ばれ、関西劇団の重鎮として人気を集めた。時代物・世話物を本領とし、立役・女方・敵役・老け役を兼ね、和実を得意とした。