源三位頼政

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げんざんみよりまさ


画題

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解説

(分類:武者)

画題辞典

源頼政は兵庫頭仲政が子なり、晩年三位に叙せられしより世に源三位という。天資英敏にして武略あり、最も射を善くし和歌に巧なり。白河法皇擢んでて判官代となす、次いで従五位下に叙し、久寿二年兵庫頭となる。保元の乱、王に勤め、平治の乱、亦一族と離れ平清盛等と共に禁旅に属す。頼政久しく近衛にあるも昇殿を許されず、嘗つて和歌を作り懐を寓して宮人に示す。二条天皇見て之を憐み昇殿を許すとなり、続いて従四位上に進む。治承元年延暦寺の僧徒群起して日吉神輿を擁し禁闕に逼ることあり、頼政一方を守りしが、巧に山徒を説きて之を卻く。二年平清盛の奏請により従三位に叙せらる、実に武人に於て異数とする所なり。次で入道して真蓮と号す、その頃、子仲綱愛馬の事によりて、平宗盛に辱めらるゝ事あり、憤慨して平家の驕暴を懲さんとし、以仁王を擁しその令旨を請い平家征伐の檄を諸国に飛ばす。宇治の一敗によりて王と頼政父子と共に戦死するに終りたりと雖も、源家再興の機は実に此一挙に与えられたり。世俗更に伝ふ、曽つて近衛天皇の仁平三年、帝病あり、頼政宿直し、紫宸殿屋上に怪物あるを認め射て之を殺す。猿頭虎身蛇尾その爪は鷲の如し、天皇病即ち癒ゆと、世に頼政鵺退治として知らるゝ所なり、功によりて侍女菖蒲を賜わるとなり、事実信ずべからずと雖も、古来人口に膾炙さるゝ逸事なり。

土佐隆信の筆山城神護寺にあり、外に慶琢の作亦伝えらる。

(『画題辞典』斎藤隆三)

東洋画題綜覧

源三位頼政は兵庫頭仲政の子、世に源三位と云ふ、白河天皇に擢でられて判官代となり保延中蔵人に補せられ従五位下に進む、久寿二年兵庫頭たり、保元の乱に後白河天皇、鳥羽帝の遺勅を以て武将十人を召す、頼政召に応じて功あり、二条帝即位の時狂人が禁内に入つたのを捕へてから昇殿を許された、平治の乱では初め義朝に招かれたが応ぜず、後白河帝潜かに平清盛の六波羅第に幸するに際し意を決し六波羅に赴き義朝を防いだ、世に伝ふ、頼政久しく禁衛にあつて昇殿を許されず、ある日

人しれぬ大内山の山もりは木がくれてのみ月を見るかな

と詠じたので、天皇之を憐み漸く昇殿を許された、高倉帝の時にはを退治て勇名を馳せ、また治承元年延暦寺の僧徒日吉の神輿を奉じて禁闕を犯さんとした時は、達智門を守り、奇智を廻らして僧徒を退け、その久しく四位にあつて位が進まぬので

上るべきたよりなければ木の本に椎を拾ひて世を渡るかな

と詠じ為めに七十五にして三位を賜はつた、そこで剃髪した処から源三位と称せらる、その子仲綱、馬の事から平宗盛と隙を生じたが、平常清盛の暴勢を憎んでゐたので窃かに以仁王を奉じて兵を起し源行家をして令旨を諸国に伝へさせた、然るに清盛、頼政の主謀たるを知らず、依つて頼政の子兼綱をして高倉宮を囲ませた、兼綱直ちに頼政に内報したので、王に勧めて園城寺に遁れ円城寺の僧徒をして延暦興福両寺に牒して援を請はせた、然し延暦寺が約を踏まぬので計劃は破れ、頼攻かくなる上はと夜討して敵を誘ひ出すに若かぬと主張し、衆皆同意した時独り真海といふ者これに与せず清盛に内報したので、計劃は亦破れた、开で止むなく王を奉じ奈良に向ふべく宇治平等院に軍を駐めたが、平氏の軍勢これを知り清盛は知盛重衡を遺はして宇治橋に是を討たしめた、(宇治の項参照)頼政二子と共に善戦努めたが、衆寡敵せず

埋れ木の花さくこともなかりしに身のなるはてぞあはれなりける

と辞世を遺し扇の芝に自刃す、時に年七十七。その鵺退治、菖蒲の前(菖蒲前)のこと人口に膾炙せらる、なほ頼政の事跡を描いたものに左の作がある。

小堀鞆音筆  『頼政訪高倉宮図』   小堀家蔵

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)