平清盛

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たいらのきよもり


「平家物語」の段階から、清盛は、横暴傲慢な性格をしめしている。江戸に入っても、これを主人公とした作品は少ない。 絵画で、清盛が画題として取上げられる場合、次の4パターンがある。

1,日招き

 沈む夕日を扇で招き戻す

2,布引の滝

 悪源太義平の霊に襲われる

3,福原の怪異

 福原の館で源氏の怨霊をみる

4,あっち死

 熱病にかかって苦しみ死ぬ

日招き

 俗説によるもので、寛政7年(1795)11月桐座「源平柱礎暦」で三代目沢村宗十郎が演じて定着した。文化5年(1808)11月中村座「御摂恩賀仙」では、三代目中村歌右衛門が演じ、王子鬘に天冠、檜扇で、落日を招き返し、この形が何度も描かれている。


 たいらの きよもり


画題

画像(Open)

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解説

平忠盛の長男。絵画としては、「日招き」「常盤御前対面」「布引滝」「福原館」「アッチ死」などが残されている。

(分類:武者)

画題辞典

平相国は平清盛の稱なり、清盛は忠盛の子なり、其母、平家物語には祗囲女御とし、源平盛衰記には兵衛佐局となす大治四年従五位下に叙し、久安二年正四位下に叙し安芸守に任ぜらる、保元の乱、平治の乱。共に戦功あり、殊にこの兩乱を経て、源氏の棟梁悉く凋落せしかば、他に武力を有するものなく、清盛勢威獨り漸く熾なり、高倉天皇の世初め後白河上皇庶政を決せしが、清盛の専恣を悪み、積憤の餘薙髪して佛乗に歸するに至る。仁安二年累進して従一位太政大臣となり、随身兵杖を給はり禁車宮中に出入するを許さる、幾くもなく之を辞ず、尋いで三年剤髪して清蓮と稱し、又浄海と改む、世に太政入道の名あり、別館を西八条に造りて土木の盛を致し又別居を福原に営みて四時の観を窮む、承安元年には女徳子を納れて中官となし、その子重盛宗盛は相並んで左右の大将となる、天下の政總てその手に因つて決し、放漫驕溢を極む、而も人の之を誹るものあるを思ひ、侍童を街上に放ちて路傍の言を聴かしめ、非議するものは捕へて之を刑するに至る、已にして藤原成親、西光等之に平かならざるもの法皇の密旨を奉じて李家覆滅を企てしも、事未然に顯はれて事に携はる者或は斬られ或は流さる、清盛後自河法皇をも幽し奉らんとせしも、重盛の諫によりて寢みたるは名高き事なり、承安三年重盛の薨ずるや、遂に事に托して法皇を幽し、法皇親近のもの三十餘人の官職を奪ひ、翌三年天皇に逼りて位を皇太子に譲らしむ即ち安徳天皇にして時に年僅に二歳なり、實に平徳子の所生となす、斯くて専横殆ど底止する所を知らざるの観あり、源頼政憤慨して先づ不家討滅の旗を飜がへし、諸国の源氏相次いで蜂起す、叡山南都の僧徒亦平かならずして屢々京都を犯す、清盛遂に京都を去りて都をも一時福原に遷すに至る、法皇を三間板屋の謂ゆる牢御所に幽したるも是時なり、物情益々騒然、人心愈々平家を去り、諸道の源氏勢漸く張る、清盛再び旧京に還り、諸将を或は東国、或は北陸、或は南海に遣はしたるも、何れも効擧がらず、忿恚の裡に熱病を患ひ、養和元年閏二月四日、六十四歳を以て薨ず、愛宕に茶毗し骨を紅島に蔵む、清盛武門に起り位人臣を極め、一門の公卿十六人、殿上人三十餘人、所領天下の半に過ぎ、一時人をして平家にあらざれば人にあらずと言はしむ、一族被服冠帽子華麗優雅を極めしは世に六波羅様と羨まれしにも知られたり、其木像は京都六波羅密寺にあり、画像は摂津筑島寺にあり。

(『画題辞典』斎藤隆三)

前賢故実

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(『前賢故実』)

東洋画題綜覧

平清盛、剃髪して静海、或は浄海に作る、世に平相国といふ、忠盛の長子、大治四年従五位下に叙し、左兵衛佐に任じ久安二年正四位下に累進して安芸守に任ぜられた。保元元年崇徳上皇、藤原頼長、源為義等と兵を挙げて皇位を争ふや、清盛は後白河天皇の召に応じ源義朝と共に白河殿を攻めて上皇の軍を破り功を以て播磨守となり、尋で太宰大弐に叙せられた、これより先、義朝清盛と隙あり、藤原信頼と謀り、平治元年清盛の不在に乗じて兵を発し後白河上皇を幽し、且つ二条天皇を擁し事を謀つた。清盛急を聞て帰洛し、天皇を六波羅の第に迎へ奉り諸将を会して信頼を誅し義朝を走らせた。義朝は尾張に赴き長田忠致の為め殺害さる。此に於て清盛の勢愈々盛に永暦三年正三位に叙せられ、参謀となり永万元年には権大納言に累進した、高倉天皇即位せらるゝや、御幼少に在したので上皇親しく政務を臠はせられたが、清盛の勢力を憎ませ給ひながらも如何ともすることが出来なかつた。清盛は仁安二年従一位太政大臣となつて位人臣の栄を極めたが、若干もなく太政大臣を辞し剃髪して静海と号した。その一門の権勢並びなきを慨し藤原成親は西光と謀り源行綱、平康頼、僧俊寛等と鹿谷に会し平氏を亡さんと謀つたが、謀は洩れて成親西光は斬られ、康頼俊寛は流罪となり、清盛は更に後白河法皇をも幽閉し奉らうと謀つたが、重盛の諌言により漸く思ひとまる、承安三年重盛死してからは、さしもに栄えた平氏の一門にも漸く秋風は立ち初め、源氏の余類此処彼処に蜂起した、清盛怒つて兵を東国に出さうとしたが、偶々熱病を患ひ七日にして薨じた、年六十四、その発祥ともいふべき、熊野詣で、入日を呼び返したといふ俗説など、時に画かれたものがある。近く左の作あり

服部有恒筆  『安芸守清盛』  第六回帝展出品

(『東洋画題綜覧』金井紫雲)