Z0677-037

提供: ArtWiki
ナビゲーションに移動 検索に移動

総合

005-06921.jpg

和歌「白露に 風の吹しく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける」   文屋朝康

歌意:白露に風が頻りに吹く秋の野原では、糸に貫きとめていない白玉のように露が散るのだなあ

絵師:朝桜楼国芳 版元:伊場仙板

彫師:-

名主単印:「村」


翻刻:「近衛院の宮嬪に 玉藻といへる美女あり  元是 人倫にあらず 三国飛行の妖孤なり  安部康親が祈にあらハれ 三浦上総両輔が 武勇の為に退治せられて  那須野のつゆと消えにける 」 柳下亭種員


絵解き

 まず彼女の体の後ろにある光は九つに分かれており、彼女の正体が九尾の狐であるということを暗示している。この光については自らが光なのか、それとも彼女が鏡を持っているためなのかについては後述する。  次に宮柊谷著「小倉百人一首」や"The Hundred Poets Compared"の記述、そして何より表記が見られないことから特定の役者を描いた絵ではなくむしろ美人画である。  更にこの歌と関連させて考える。 するとこのなぞらえは「玉ぞ散りける」という部分に着目し、このような妖婦玉藻の前が、最終的には三浦上総両介に滅ぼされてしまうことを暗示していると解釈することが出来る。


登場人物

「歌舞伎登場人物事典」によれば以下の通りである。

 「玉藻の前」は、江戸期以前には『玉藻の前物語』や『玉藻の草子』などで物語や絵巻、謡曲などに取り上げられた。

 更に「室町物語『玉藻の前』の展開 ―能〈殺生石〉との関係を中心に」と「『玉藻前物語』の研究」によればそもそも玉藻の前の伝説は、殺生石説話と「玉藻前」の物語に分かれており、南北朝期に二つが結びついた。そしてそこから能「殺生石」が成立したと考えられる。

 「歌舞伎登場人物事典」に戻る。  江戸期には紀海音の浄瑠璃『殺生石』以後繰り返し戯曲化されている。享和から文化(1801~1817)にかけ読本『絵本三国妖婦伝』や『絵本玉藻譚』が相次いで書かれ、その影響は歌舞伎界にも及んだ。四代目鶴屋南北は文化四(1807)年に『三国妖婦伝』を書き、主役の初代尾上松助のケレンが好評であった。さらに南北は文政四(1821)年七月『玉藻前御園公服(たまものまえ くもいのはれぎぬ)』を書き、三代目尾上菊五郎が玉藻の前を演じた。容姿に優れ、松助のケレン芸を継承した菊五郎にとっては、絶世の美女でなおかつ空を飛ぶ狐でもある玉藻前は、まさにはまり役であった。

以上から、古くから「玉藻の前」は能のみならず説話、伝説としても有名であり近くはこの「小倉擬百人一首」の描かれる20年ほど前に四代目鶴屋南北と尾上菊五郎の歌舞伎がかなり好評となり流布していたことが伺える。


  参考文献

『歌舞伎登場人物事典』 白水社 2006

「室町物語「玉藻の前」の展開 ―能〈殺生石〉との関係を中心に」川島朋子 国語国文 73号 2004年

「「玉藻前物語」の研究」 高島一美 宮城学院女子大学大学院人文学会誌 2005年


あらすじ

   翻刻は、有名な「殺生石伝説」に基づいていると考えられる。  「殺生石伝説」とは鳥羽上皇の治世に、宮中に学芸に優れた美女がおり、その聡明さから帝の寵愛を受け玉藻の前と名乗っていた。彼女は秋風に灯火が消えると自ら光を発して宮中を照らすなど不思議な能力があった。しかし彼女が寵愛を受けるにつれ帝の体調が悪くなった。 そこから占いを行った安部康成に正体が九尾の狐であることが見破られる。この狐は印度、中国それぞれの王朝で悪事をなし、国を傾けてきた妖怪であった。 そこで三浦、上総両輔に九尾の狐の討伐令が下り、二人は那須野に九尾の狐を追い詰め矢を射た。矢に射られた狐は石に身を変じてしまった。その石は狐の呪いから周囲に今でも瘴気を出し続けている。


背景

殺生石伝説

 殺生石伝説を元とした作品は「室町物語」に始まり、能「殺生石」や歌舞伎「玉藻前曦袂たまものまえ あさひのたもと」「玉藻前御園公服たまものまえくもいのはれぎぬ」などに代表され、多岐にわたる。分類も能や歌舞伎など中央芸能化から淡路人形芝居という地方芸能まで及び、その伝説の有名性をうかがい知ることが出来る。(淡路人形芝居は大道芸能)その表現技法も大きく異なっている。

 『日本説話伝説大事典』によれば文献における「殺生石」の語の初出は室町中期の「下学集」、そして「神明鏡」「臥雲日件録」などである。これらでの伝説は上のあらすじとほとんど変わらない。 この伝説は広く流布し、以後謡曲や演劇、小説などあらゆるジャンルで登場している。特に18世紀からは読本「絵本三国妖婦伝」(高井蘭山作 文化元年 1804年)や「画本玉藻譚」(岡田玉山作画 文化二年 1805年)により 人気となった。これの簡約版として文化六年には式亭三馬『玉藻前三国伝記』が発行された。これらの作品のあらすじは別項の「玉藻前曦袂」と同じく、天竺、唐、日本での妖狐の悪行を描いたものである。このように18世紀初期の読み本の人気により、悪女の定番として玉藻の前が広まったと考えられる。その上、この錦絵が製作された直前にも歌舞伎で演じられるなど、長い人気を保っていたことが伺える。 考察

1.モデルについて

 『歌舞伎脚本傑作集』第11巻には上記の浮世絵と同じ玉藻の前の見返り図が存在する。この絵は「玉藻前御園公服」の絵であり、同時に八咫の鏡を持っている場面のため、彼女の背後から光が行く筋も差し込んでいる構図まで同じである。  前述の浮世絵は同書によれば「天保五年(1834年)上場の錦絵」であり、「初代豊国の作」であると述べられている。ところが、初代 歌川豊国は文政八年(1825年)に亡くなっているため、この記述は矛盾している。そのため以下の場合が考えられる。  まず、「天保5年上場の錦絵」という記述があっている場合がありえる。この場合描いているのは二代目豊国であり、モデルとなっているのは年代から考えてやはり三代目尾上菊五郎となる。  次に「初代豊国の筆」という記述があっている場合である。この場合、天保5年以前に「玉藻前御園公服」は文政四年、七年に演じられている。この時の役者は三代目尾上菊五郎である。 いずれにしてもこの絵が「小倉擬百人一首」の元になっているのは確実であり、この絵のモデルは三代目尾上菊五郎である。よって今回紹介している浮世絵も構図、顔の造形などの影響を受けているものであると考えられる。

2.結論

 以上説明からこの作品の面白さは、幾つかの理由が重なったところあると考えられる。まずは「玉ぞ散りける」の言葉から、一般に流布していた玉藻の前を描き、一見平安美人に見せつつも、"The Hundred Poets Compared"に述べられている通り、「玉光が九つに分かれている=九本の尻尾」を暗示し、彼女の破滅を暗示している点。  次にこの構図が初代、あるいは二代目豊国の「玉藻前御園公服」の錦絵を真似することでこの光が唯の後光ではなく、「玉藻前御園公服」にある「八咫の鏡」の反射であり、転じて特に「玉藻」を髣髴とさせるものである点。  また同時に、横に女官二人が跪いていることから、「玉藻前曦袂」の神泉苑の下りもまた連想できる点。 これらの理由が重なることで、この浮世絵が唯の平安美人図ではなく歌舞伎の錦絵のパロディーにもなっている。そのような玉藻前を描いて、秋の野原の情景から「白露」のように儚く消えてしまう稀代の悪女に和歌を読み替えた面白みが引き出されているのである。


参考文献(全体的に)

・『能・狂言辞典』平凡社 1986年

・『日本国語大辞典』 小学館 1977年

・『後撰和歌集』 工藤重矩 和泉書院 1992年

・『ビジュアル版 日本の古典に親しむ2 百人一首』 大岡信著 世界文化社 2005年

・"The Hundred Poets Compared" A Print Series by Kuniyoshi/Hiroshige/and Kunisada 2007,Henk J. Herwig/ Joshua S. Mostow,Hotei Publishing

・『歌舞伎年表』井原敏郎著 岩波書店 1973年

・『江戸名作画帖全集 北斎・歌麿・国貞』永田生慈責任編集 駸々堂出版 1992年

・『浮世絵事典』吉田暎二著 画文堂 1990年

・『鶴屋南北全集』第八巻 三一書房 1972年

・『鶴屋南北論集』鶴屋南北研究会編 国書刊行会 1990年

・『歌舞伎大辞典』服部幸雄ら編 平凡社 2000年

・『歌舞伎人名事典』野島寿三郎編 日外アソシエーツ 2002年

・『神話伝説辞典』朝倉治彦ら編 東京堂出版 1963年 

・『歌舞伎脚本傑作集』第11巻 南北 坪内雄蔵, 渥美清太郎編 春陽堂 1923年

・『式亭三馬集』第4巻 式亭三馬 本邦書籍 1992年

・『日本説話伝説大事典』志村有弘, 諏訪春雄編 勉誠出版 2000年

参考HP

・早稲田大学演劇博物館 http://133.9.157.146/web50/index.htm ・国立国会図書館 http://www.ndl.go.jp/ (http://www.ndl.go.jp/jp/gallery/permanent/jousetsu123.html)